2013年10月29日火曜日

石田三成の三献茶と土木事業

 石田三成と言えば「三献茶」
 最近ヒットした映画『のぼうの城』の中で、なかなか戦功のない石田三成に親友・大谷吉継から「それだから、いつまでたっても三献茶の三成と言われるんだ」といったセリフを掛けられるシーンがありました。なるほど、三という数字に掛けてるってことでしょうか。

 石田氏は元々近江国坂田郡石田村の土豪で、三成は石田正継の次男として生まれます。幼名は佐吉。
 土豪でも貧しく、三成は寺に預けられていたとも、また寺に通って勉学していたとも伝えられますが、ともあれ近くの観音寺に寺小姓としていた時に、鷹狩りをする秀吉との出会いがありました。


 今でも、JR長浜駅前には秀吉に茶を献上する三成の像が立ち、観音時には三成水汲みの池と伝えられる井戸が残されているほど、地元では親しまれている逸話です。

 当時、長浜城主として任に着いたばかりの秀吉であった為、鷹狩りには領内視察の意味もあったことでしょう。
 元は敵地であった場所で、気楽に寺に入って茶を所望するあたり無防備すぎる気もしますが、この三献茶の話そのものが創作であるという説が強いので、そのあたりは突っ込まないことにしましょう。

石田三成の三献茶

石田三成の三献茶


 ただ、後世の創作であったにしろ、石田三成は非常に機転の効く、有能な人材であったことには違いありません。
 秀吉政権の中でも、文人派奉行として、財務、太閤検地、諸大名の所領替、兵站や戦後処理などに手腕を発揮しました。


 その三成の活躍話の一つに、淀川の洪水の話があります。
 『名将言行録』にある話なのですが、秀吉が大坂城を築いてまもないころに起きた堤防決壊なので、さすがの秀吉も現場で陣頭指揮を執ったと言われます。

石田三成と米俵

 大雨による堤補修の責任者を願い出た三成は、すぐに大坂城京橋口の米蔵を開け、何百何千という米俵を運び出し、洪水を塞き止めて大阪の町を守りました。
 この機転、なかなかできることではありませんし、また日頃から兵糧調達の任務をしていたからこそできた芸当でありましょう。

 更に、雨が上がった後、付近の住民に「丈夫に作られた土俵三俵を持ってくれば、この米一俵と交換してもよい」とふれを出し、大いに喜んだ民により堤防は以前よりも増して頑丈に仕上がったと伝えられます。

 話だけ聞くと、現代にも負けず劣らない土木工事が行われたように思われます。
 本当かよ?と思う人もあるでしょう。
 ただ、豊臣秀吉は、備中高松城の周囲に長さ4km、高さ8mほどの堤防を短期間で築いて水攻めを行ったことで有名なように、土木事業に大変長けていました。
 秀吉による紀州雑賀征伐でも、7kmもの長大な堤防を築いて太田城を水攻めにしており、石田三成自身も関東・忍城攻めの時に水攻めを行い、現在でも「石田堤」の名前で遺構が残っています。この時の堤防は28kmにも及んだと言いますから驚きですね。
 この忍城攻めが、前述の映画『のぼうの城』で描かれています。



 そんな優秀な石田三成ですが、性格がかなり横柄で傲慢だったようで、さらに関ヶ原の負け戦から歴史上いいイメージがありません。
 いや、三成は関ヶ原では善戦したと思うのですよね。
 元々家康は、三成ごときが反徳川の兵を集められるはずがないと思っていたようですし、小早川などの裏切りがなければ兵力の上で家康を圧倒していましたからね。

 そのようにさせたのは、三成の、秀吉に対する熱い忠義の姿勢であったことは違いないのでしょう。
 家康自身も「三成は、さすが大将の道を知るものだ」と言い、後に徳川光圀も「義を尽くした三成のことを悪く言うものではない」と言ったそうです。

 それもあってか、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』の中で江守徹が、義を貫こうとする石田三成を見事に演じていました。
 あの番組で、三成のイメージがかなり変わった気が(私は)しています。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)




2013年10月25日金曜日

奥の細道湯けむりラインの紅葉

宮城県と山形県を結ぶJR路線・陸羽東線は愛称「奥の細道湯けむりライン」と呼ばれ、紅葉の季節は多くの乗客でにぎわうのだとか。

特に、沿線にある鳴子峡の紅葉時期は相当混雑するようで……なるほど、写真を見れば、こりゃ何度でも見たい場所ですよね。

ということで、奥の細道湯けむりラインのイラストです。

JR陸羽東線

2013年9月25日水曜日

三江線 第一江川橋梁(粕淵ー明塚)

 JR三江線の粕淵ー明塚間にある第一江川橋梁は、歩道が併設されていて、列車と平行して普通に通行することができるマニアックなスポットです。

三江線ナイト

 江津から走ってきた三江線は、ここで始めて江川を渡ります。
 1972年の水害でこの橋梁がやられた時、江津側に野井仮乗降場という仮の駅が設けられ、粕淵への渡し船が運行されたそうです。
 今はありませんが。


2013年9月24日火曜日

『鉢木』「いざ鎌倉」の北条時頼廻国説話

 鎌倉武士の心意気「いざ鎌倉」を描いた『鉢木』は、浄瑠璃や歌舞伎だけでなく、戦前の教科書にも掲載されていた程、よく知られた話だったようです。
 最近はどうでしょうか。

『鉢木』と「いざ鎌倉」

 結局この話の本来のテーマは「忠義」なので、戦前教育には都合がよかったのでしょう。マンガではそのあたり、視点を変えて描いています。

「いざ鎌倉」マンガ

 さて、この話が実際にあったのかどうか……正直、伝説の域に入っていると思われますが、『鉢木』にまつわる場所が佐野以外にも存在致します。
 というのも、佐野源左衛門は北条時頼である旅の僧に「梅、桜、松」三鉢の盆栽で薪を作りねぎらいます。
 その後、時頼はこの礼として源左衛門に、三鉢にちなんで「加賀国梅田庄」「越中国桜井庄」「上野国松井田庄」の領土を与えたことになっています。庄名が「梅、桜、松」とシャレていて出来過ぎなのですが、この三カ所には、それぞれ鉢木に関する石碑が建っているそうです。
 例えば「越中国桜井庄」は現在の富山県黒部市にあった地名。県立桜井高校など今でもその名は残り、佐野源左衛門の話が伝えられています。


 それにしても、幕府の最高権力者が大雪の日に、田舎をふらふらと歩いているものなのか。『鉢木』の話を聞いた人から、実際に質問されました。

 この執権・北条時頼は善政を敷いた名君と言われ、特に農民など庶民を救済したことから、諸国を巡った伝説が生まれたようです。
 つまり『水戸黄門』ドラマみたいなものです。
 やはり実際に庶民の暮らしを直接見ないことには、世にはびこる悪を正すことはできない、ということなのでしょうね。

 この北条時頼廻国説話は『太平記』や『増鏡』にあるようですが、時頼は30歳の若さにして病気を理由に執権を退き出家します。
 嫡男時宗がまだ幼少だったことから、その代官として一族の北条長時に執権を譲ったのですが、実際はその後も院政のような形で政治の実権を握り続けました。
 それは時頼が三十七歳で亡くなるまで続きましたが、執権時代のしがらみから逃れられたことは事実です。
 そんな立場になったことも、廻国伝説が生まれた一つのきっかけだったのかもしれません。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)




2013年9月7日土曜日

「中世夢が原」へ鉄道とバスを使ってアクセスした後、三江線乗車という無謀

 歴史マンガを描いていると、当時の建物や生活風景など、どうしても資料が必要になってきます。
 適当に空想で描く訳にもいきませんしね。ファンタジーマンガじゃないので。

 それで、時間のある時に復元施設などを訪問しておりまして、例えば「福井一乗谷遺跡」の復元武家屋敷や町並み、茅葺きの民家など大量に写真に収めて来ました。
 次のターゲットは、古民家が多く保存されている「川崎市日本民家園」か、室町期の武家屋敷や市場が再現されている岡山県「中世夢が原」

 岡山なら、島根への帰省の時に立ち寄れるな、と思って計画を立てたのですが……こりゃ大変な所にありますね…夢が原。
 特に、1日のうちに夢が原を訪問して、JR三江線に乗車して石見川本駅まで行こうとしたので、相当に無理がある。
 訪問計画立案に苦難した話は別としまして、とりあえず以下は訪問記。

 同日中に「中世夢が原へ公共交通で行く」と「三江線で川本へ」という二つの条件を満たす為に、まずは朝の6時半に岡山駅へ。

岡山駅
早朝の岡山駅前
JR伯備線6時54分岡山発に乗って、井原鉄道の乗換駅である清音駅へ。

伯備線乗り場
岡山駅の伯備線ホーム

清音駅で井原鉄道に
清音駅で井原鉄道に乗り換え
キハ120ですか。
 ローカル線じみているのに、ひたすら高架とは恐れ入りました。

 そして矢掛駅に7時39分着。

矢掛駅
矢掛駅
この矢掛駅から北振バスの「三山・平谷線」に乗り換えなのですが、一日7往復しかなく、駅発が7時40分。これ、井原鉄道と接続してるの?
 ……一応、北振バスにあらかじめ電話で聞いておきました。接続している、と。平日はスクールバスの意味もあるそうで、それならせめて「7時42分発」などにしておけば、私のような旅行者が不安に思うこともないだろうに……。

北振バス 矢掛駅バス停
美星方面のバス来ました
で、バス乗車。私の他に乗客はいません。

 古びたバスですが、地域に密着しているのでしょうね、県道はバイパスを通らずにひたすら旧道らしき狭い道を走るんですよ。誰も乗車してきませんが。

ひたすら狭い旧道を走るバス
しかも、途中とんでもない山の中を走ります。これ、どこへ行くんだ……。


 そして、目的地の「美星診療所前」バス停に到着。8時10分。バス料金は片道500円。
 ここから、とぼとぼと歩きます。

中世夢が原へ徒歩

 だいたい15分もかからずに「中世夢が原」に到着。
 開場は9時30分なので、自販機の前の休憩コーナーでひたすら読書して待つ。

こんな場所があって助かります
……ほんと、誰もいない。平日ですものね。
 私にとっては、これほどありがたい施設はないのですが、何かイベントでもない限り、一度見てから再び訪問しよう、とはなかなか思えないですよね。
 小さな子ども連れで楽しめるようなアトラクションでもないですし。

 聞けば最近はコスプレイベントがあるようで……なるほど、中世屋敷の前で写真を撮れるというのは、レイヤーさんには嬉しいプレイスですね。

 で、500円を払って入場。
 私の他に、お客は誰もいません。平日ですものね。

中世夢が原 武家屋敷
武家屋敷の向こうに美星天文台が
でも、いやー、とても楽しめました。
 中世の武家屋敷、山城跡、市場、農家などの復元施設は、どれも生活感あふれる造りになっていて、資料としたい私はもう写真撮りまくりですよ。
 ありがとうございます、美星町!

 市場で、係の方から声をかけられました。
「是非、すいかを食べていってください」
 えーと……と、戸惑っていると、
「いえいえ、お金はいりません。というか、食べるのを手伝ってほしいのです」
 とのことなので、遠慮なく頂くことに。


 隣では、おじさんが机らしきものを作っていました。
「施設も古くなってきて、いろいろと直さねばならないところがあるのだが、みんな手作業だよ!」
 と、半分面倒そうに言ってます。
 すいかも、このおじさんの作物なのだとか。
 夢が原も22周年だそうで、確かにあちこち痛んでいる感じがします。いや、その痛み具合がまた素敵な雰囲気を出しているのですが、何ぶん中世再現の堀立柱は痛みが早いですから、保全も大変でしょうね……。
「……おまけに、建物はみんな、ちょうなで削ってますよね。これ建てるの大変だったでしょうね」と聞けば、
「それは最初だけだね。さすがに修繕に再びちょうなを使おうなんて面倒なことは思わないよ」と、電動カンナで作業続行。

美星天文台
天文台が邪魔だなー
で、さて、1時間半程度見たところで、そそくさと夢が原を後にします。
 まあ、少し駆け足でしたが、全部見れました。まあ、楽しむには最低でも2時間は欲しいですね。

夢が原周辺
さようなら、夢が原!
美星診療所前バス停を11時29分発のバスで矢掛駅に戻ります。
 これで戻らないと、三江線に乗れないのです。

美星診療所前バス停
乗客がいないバスが来た
バスはフリー乗車区間があるそうで、途中、道ばたで手を挙げているお婆さんなどを乗せつつ、矢掛駅12時に到着。

矢掛駅
一応、矢掛駅で切符買えます
12時半の列車まで、昼食でもと思いますが、駅周辺を歩いてみても、何もないですね。お好み焼き屋らしき店が見えましたが、短時間では無理でしょうし。
 (ちなみに矢掛駅にはコインロッカーありません)

 空腹のまま井原鉄道乗車。12時32分。

井原鉄道 福山行き

 その後は、福山14時20分発の福塩線で、府中乗り換え、三次着16時54分。
 三次発16時56分発、浜原行き。浜原30分待ちで江津行きに乗り換え。
 その後はどうなったかは、「三江線 橋脚流出直前の便に乗っていた」をご覧ん下さい。

 ……それにしても、乗り換えに時間ないですね。列車はのんびり走るのに、なんで接続がせっかちなのか、福塩線と三江線は……。

 
 


2013年8月26日月曜日

三江線の橋脚流失直前の便に乗っていたという話

 2013年8月24日、島根県西部を襲った集中豪雨で各地で甚大な被害が発生し、故郷の邑南町では川に流された男性が死亡する事故も起きました。

 当日、たまたま邑南町に帰省していた私は、朝4時の防災無線に起こされた訳ですが、早朝周囲を見回りに行った父が「山根原(隣の集落)で重五郎さんが行方不明になっている」と、早くから騒ぎになっていました。
 こういうニュースを聞くと、「なんでそんな時に田んぼに見回りに行くのか」と誰もが思うのですが、父が見回りに行ったように、何というのでしょうか、農家の宿命みたいなものがあると感じてしまいました。

 そして同じ頃、川本町因原では、JR三江線・鉄橋の橋脚が濁流にのまれて流失してしまいました。

 
 大変ショッキングな光景ですが、実はこの前日、三次から江津に向かうJR三江線最終列車にたまたま乗車していました。
 一晩でこの惨事とは、本当にゾッとします。

 いつもなら、広島から高速バスで瑞穂インターへ帰るところを、たまにはのんびりルートを取るかと選んだ8月23日の三江線。
 三次発16時56分発・浜原行きに乗った時は、既に雨が降り始めていました。

三江線 口羽駅
口羽駅で交換があります
 始発では車内は15人程度の乗客。想像していたより賑やかでした。
 当然ながら次第に乗客は減って行き、特に作木口駅でただ一人降りた女子高校生がトボトボと対岸に向かって歩く姿が何となく忘れられませんが、それはともかく、石見都賀を過ぎると、私の他に乗り鉄さんらしき方2名となりました。
 ちなみに、それまで降りる人はあっても、乗る人はありませんでした。

三江線 浜原駅
浜原駅
 18時30分、浜原駅到着。ここに来るのは小学生の時に浜原ダムへ釣りに来た時以来じゃないですかね。
 この時から、かなり雨脚が強まってきました。

粕淵駅停車中に……
 浜原で江津行きに乗り換えて以降、運転席から無線の声がしきりに聞こえてきました。
 そして粕淵駅停車中に、運転士の携帯電話が鳴ります。
 「……繰り返します、指令番号○○、江津ー浜原間は大雨の為時速30キロ以下の徐行運転をし……」
 乗客3人しかいない車内に聞こえまくりです。
 徐行でもいい、とりあえず走ってくれるなら……というか、このあたりは、元々30キロぐらいの低速運転区間じゃないかな?

三江線 石見川本駅
石見川本駅に到着
 さて石見川本駅で足止めされました。4、50分は動けないとのこと。
 つまり、江津発の列車が16分遅れて発車し、更に徐行運転しているので、石見川本到着が相当遅れる予定であり、江津ー石見川本間には交換できる駅がないので、とにかく待つしか無い。
 因原で降りる予定だった私は、急遽ここで降りる事にしました。
 因原駅に迎えに来ていた父を急遽川本へ呼び寄せたのですが、「もし浜原で止まっていたら、さすがにそこまでは迎えに行かなかったからな」と愚痴を言われてしまいました。

 で、他の鉄さん2名は、一人は浜田へ、一人は出雲市へ行く予定なのだとか。
 「もし江津で接続できなくなれば、代行タクシーを出しますから、間違いなく出雲市へお送りします」と運転士の説明。
 「えっ、お金はどうなるのでしょう?」
 「もちろん、追加では頂きませんから大丈夫です」
 ……JRも大変ですね。予測できない自然災害で、予期せぬお金が飛んで行く交通機関。やっていけるのだろうか、外国ではこんなケースどうなるんだろう、そんなことを思いつつ……

三江線 橋脚流失前日の勇姿
さようなら、江津行き列車よ
 駅を後にする訳ですが、この後列車は江津に向かったようですが、橋脚流失の鉄橋を最後に渡った列車に違いありません。
 当然ながら、24日以降は運休で、復旧のめども立たないようで、この写真が「最後の勇姿」とならないことを願っております。


 ついでに、石見川本駅について少し紹介しておきます。

石見川本駅 周辺飲食店

 9時57分三次発の列車で江津に向かうと、石見川本で1時間半以上待たされることになります。
 それで乗り鉄さんは川本の町をブラブラ散歩するのですが、そんな人向けに、駅周辺の飲食店地図が掲示されています。
 なかなか参考になります。もっと掘り下げて、グルメパンフにでもすれば更に面白い事になるかも。

コインロッカー
 また、散歩する人用に、大型のコインロッカーが用意されています。100円ですが、使用後にお金が戻ってくる親切設計。
 至れり尽くせりの石見川本駅でした。

三江線 ウォーキングマップ

 なお、駅には「ウォーキングマップ」などパンフレットが置いてあります。
 「石見みえ」なる萌えキャラが案内してくれますよ。


2013年7月31日水曜日

禍いと苦難を避ける一句「堪忍」

「堪忍」の一句の話。

 怒りの心とは、げに恐ろしいもので、路上でちょっと肩が当たったことから言い争いになり命を落としたという話もあります。
 腹を立てて暴言を吐いたり、乱暴を働いた後、大体の場合は後悔しかありません。
「あの時怒っておいてよかった」という例は、ほとんど無いのではないでしょうか。


 この「堪忍の一句」の話は各地にあるようで、特に参考にしたのは『譬喩尽』にある「龍渓禅師」の話です。

 龍渓禅師とは江戸時代初期の人。
 禅師の元で学問に励んでいた弘善という人に「秀才博識なりといえども、大道を知らない。文字言葉を離れたまっしぐらの大道の言葉を授ける」と言って禅師が告げたのが「堪忍」の言葉でした。
 何かあった時は、この「堪忍」の言葉を唱えて三歩下がりなさい、と禅師は言うのです。
 これを聞いた弘善は「なんだその程度、何が大道か」と心中あざけりますが、六年後実家に帰ると事件が勃発します。
  妻が留守番をしているはずが、家の中にいたのは妻だけではなく、ずきんをかぶった男でした……と、この後どうなったかは、マンガを見てください。 



『日本例話大全集』の中には「千両の堪忍袋」という題で、九州の話があります。
 ある九州の大名が「短気の治る妙薬が欲しい」と家臣に命じて、諸国へ探しに出かけさせます。
 そしてある町で見つけたのが「堪忍袋」という代物。
 粗末な木綿の袋の中に「まったり、まったり」と書いた半紙が1枚入っているだけのものが、千両という高額で売られていたのです。  
「いくらなんでも不埒な商売だ」と言えば「けっして高くはありません。千両はおろか、一万両でも安いと思う時があるでしょう」と返される。
 しぶしぶ千両で求めて実家に戻れば、妻の隣に仲むつまじそうな男の影が……。
「おのれ!」と刀に手をかけて暴れ込もうとした瞬間、堪忍袋から「まったり、まったり」と声が聞こえてきた。
 はっと気がついた彼は、一息ついて「ここは待ったり、待ったり」と冷静になり、家に入れば、その男の影は妻の父親でした。
 婿の長旅に、娘一人に留守居をさせるのが不憫と思った舅だったのです。
 堪忍袋を受け取った大名は「なんだこんなもの」と思ったものの、その家臣から聞いた妻と舅の話を聞くと、「なるほど、腹のたった時は、まったりまったりと思慮しなければならぬ。千両は安いものだ」と言って喜んだそうです。

 さすがに千両で売った人は、ぼろ儲けだろうと思いますけどね(笑)。
 ただ、ちょっとした誤解から生じた怒りの炎によって、千両よりももっと大事な妻の命を奪うところであった……怒りの心は恐ろしい、という教訓がよく分かる話です。  


 最近私の家では、子供に「宿題しなさい」と言ってもやらない、「ピアノの練習しようね」と言ってもやらない、「晩ご飯ですよ」と呼んでもテレビ見てて来ない、言うこと聞かない子供たちに妻が怒りのあまり怒鳴り散らす。
 それを聞いた子供は、余計に腹を立てて一層親に従おうとはしない……。こんな光景がよくあります。
 怒りの心にまかせて怒鳴るのは、実は簡単なこと。レベルは子供と同じ。楽な方法ではありますが、でも気持ちのいい解決にはなりません。
 その怒りの心を抑えて、子供がよい方向に向かうように諭して導くことは、これはかなり難しいことだと知らされます。かなり我慢しなければなりませんから、エネルギーを使いますよね。
 ですが、結果、怒りを抑えた方が、気持ちのいい結果を得ることができるものです。  

2013年7月17日水曜日

「敵に塩を送る」の語源・上杉謙信と塩の話

 平成24年(2012)10月、年に一度行われる「IMF(国際通貨基金)世界銀行年次総会」が東京で開催されました。
 日本での開催は48年ぶりの2度目。世界中の財務大臣や中央銀行総裁らが集う世界最大規模の国際会議です。
 その会議で、ラカルドIMF専務理事が『敵に塩を送る』という日本の故事を引き出し、「困難な時には、お互いを助け合うことが前進する唯一の道である」と演説しました。
 今や、『敵に塩を送る』という言葉は世界規模で知られることになった訳です。

 その語源は、多くの人が知る如く、戦国時代の武将・上杉謙信が、宿敵である武田信玄に塩を送ったという出来事から来ています。
 生涯のライバルであった上杉謙信と武田信玄……そう語られるのは後世のことであって、元々謙信は信玄をひどく嫌っていたという話もあります。
 しかし、信玄の死を聞いた謙信は「好敵手を失った」と号泣したとも伝えられ、また信玄は臨終に「困ったことがあれば義に厚い謙信を頼れ」と息子勝頼に遺言したとも言われます。
 川中島を中心に、お互いに痛い目に合いながらも、何かしら友情めいたものがあったと後の世の人が考えたくなるのも当然と言えば当然でしょうね。

敵に塩を送る

 さて、武田の領国は山に囲まれ海に接していないことに目を付け、塩止めを行ったのは駿河の今川氏真でした。
 今川義元を桶狭間で失った後の今川領内は混乱しており、また信玄の嫡男である義信は義元の娘と結婚しており武田家とは親戚関係でしたが、その武田義信は早くに死去し、それを機に信玄は駿河侵攻を始めます。
 窮した氏真は、隣国の北条氏康と計り、武田領国への塩商人の往来を禁止します。
 これは永禄十年の書状にあることから事実のようで、塩止めは数年続くことになったようです。


 この効果はどうであったのか。
 武田領内は相当な打撃を受け、吉川英治も小説の中で「三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない信玄も『いかにせんか』と日々屈託顔に見えた」と描いている程。
 かたや、駿河侵攻が早かった、はたまた越中から信濃に入る商人ルートがあったとして、打撃はそんなに大きくなかったのではないかという見方もあります。

 ちなみに、山梨県には「塩山」という地名があり、かつて岩塩がとれたという説がありますが、それはどうも違うようです。

 それにしても、塩が無いと味噌も漬物もできません。
 特に雪が降る山間部に置いて、保存食が作れないのは大打撃でしょう。
 昔、民放ドラマで『おんな風林火山』という番組があり、その中で甲斐金山で働く鉱夫が「うう、塩をくれ、塩を〜」とまるで薬物中毒者のような演技をしていました。まあ、それはあくまでドラマの演出であって行き過ぎでしょうが、じわじわと塩の無い苦しみは武田領内を襲ったことでしょう。

敵に塩を送る 意味

 その今川氏真は、当然ながら日本海側からの塩輸送も止める為、上杉謙信にも協力を求めたようですが、謙信は「我らには我らの策があるので」と断ったと吉川英治は書いています。
 そして、謙信自ら武田に塩を送ったかどうかは色々説があり定かではありませんが、塩商人の往来は止めなかったようです。
 武田信玄は、謙信に対して「福岡一文字」の名刀を送って感謝の意を表したと伝えられ、事実その太刀は現在重要文化財に指定されています。

 その謙信、かなりの酒好きであったと言われ、味噌や梅干しを肴に飲んでいたと伝えられます。
 その肴の塩分取り過ぎと飲酒により高血圧となり、脳溢血で死亡したという説が有力です。享年49。
「敵に塩を送る」……宿敵信玄に送った塩でまた、自分の死期を早めたのでしょうか。


 (参考文献)
岡谷繁実『名将言行録』
湯浅常山『常山紀談』 
奥野高広『武田信玄』
吉川英治『上杉謙信』
財務省編『IMF・世銀年次総会開催』

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)


2013年6月28日金曜日

トム出版のオリジナル・ノートの印刷を試す

 オリジナルノート……と言っても、ネットで多く見るパターンは「様々なアイテムを組み合わせて、自分好みのノートを作る」という物ですが、今回は表紙から中身まで自分の絵柄で作成するというもの。
 しかも、小ロットながらも、そこそこ安価で。

 そうなると同人誌関係の印刷所に頼むことになりますが、最初に狙っていたのは「サンライズ印刷のリング綴じノート
 B6サイズで中身は40枚。100冊で28000円なり。むむむ。

 よく使う「栄光印刷」は、ノートグッズは無い。

 そこで「トム出版のオリジナルノート」を見つけました。
 B5サイズで、中身は32ページ。50冊で8000円(送料込)。
 小ロット依頼には、手頃ではないか。


 ということで、物は試しに依頼してみました。
 
トム出版のオリジナルノート

 表紙、テカテカツルツルです。
 ちょっと反ります。

 出稿データはイラストレーターデータへの画像埋め込みだったのですが、おそらくイラレデータに変なプロファイルを埋め込んでしまったのか、ちょっと思ったものより薄く、コントラストが強く印刷されてしまいました。

オリジナルノート

 ホッチキスによる中とじ。
 中身の罫線もイラストレーターで作りましたが、罫線濃度は60%では薄く感じますね。


 ということで、別の方のイラストで再度トライしてみました。


 前回の反省を元に、イラストレーターデーターによる出稿ではなく、フォトショップデーターで出稿しました。
 色味は狙った通り、いい感じです。


 中の罫線濃度は80%にしましたが、今度はいい感じです。
 指定する色にもよるでしょう。そりゃ100%濃度だとしても、黄色などを選べば薄く感じることでしょう。

 ちょっとしたノベルティ、子供に配るなどには丁度いいですね。
 50冊注文の場合、余分に10冊程度つけてくれます。
 難点をあえて言えば、テカテカの表紙が反り気味なのが何とも。中とじだから仕方ないのでしょうけどね。

 トム出版のサイトでは説明不足や不明点も多い感じなので、以上ご参考までに。



2013年6月26日水曜日

伊能忠敬 50歳からの挑戦

 日本全国を徒歩で歩き、最初の精密な日本地図を作製したことで有名な伊能忠敬
 その伊能忠敬は、最初から天文・測量を志していた訳ではなく、50歳以降からの勉学によって成し遂げた偉業であることに驚かされます。

 伊能忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)に神保家の次男として生まれました。
  幼くして母が他界、父親や兄弟とも別れて暮らし、孤独な子供時代でしたが、早くから利発だったと言われます。

伊能忠敬マンガ

 宝暦十二年(17642)18歳の時、下総国佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子に迎えられ、21歳の達(みち)と結婚しています。
 当時、伊能家は佐原村の名主であり、酒造業や水運業を営んでいました。
 しかし、達の父親は37歳で他界。同じ歳には、父親の兄も亡くなり、達の母は19歳で未亡人に。その後、14歳の達を伊能家の跡継ぎにして、同族の18歳の男を婿に迎えますが、その彼も20歳で他界。忠敬はこの後に達と結婚することになります。
  当主が若くして亡くなり、しばらく伊能家は親戚がきりもみしていた分、忠敬にかかる責任は重く、勉学の志を持ちながらもそれを後回しにして、朝から晩まで家業に専念することになります。

 天明3年(1783)、浅間山の大噴火により関東一円の農作物は甚大な被害を受け、大雨による利根川氾濫が佐原村を襲い、伊能忠敬は窮乏した村民たちの救済に奔走します。その後「天明の大飢饉」と言われる大凶作が続くことになります。
  忠敬は、利根川の水防工事などに率先して立ち上がり、その功績から領主・津田氏より帯刀を許されています。

  そんな中、妻である達が病死。その悲しみの中、天明5年はさらに飢饉がひどくなり、江戸・大阪では打ち壊しが起こり、利根川の氾濫、疫病、米価の高騰、あらゆる災難が襲ってきますが、忠敬の懸命の采配で、家業の復興だけでなく、救民にも積極的に取り組み成果を得ます。

伊能忠敬

 伊能家の経営は安定しますが、不幸も多くありました。妻・達の前夫の子は6歳で、また次女は19歳で亡くなり、忠敬45歳の時に迎えた二番目の妻・信(のぶ)は難産の為病没。
 それにしても、昔の女性は早くに子供を産み、人の生もあっという間に終わったのですね……長寿・晩婚の現代とは相当違った価値観があったのでしょう。

伊能忠敬マンガ

 寛政6年(1794)、忠敬49歳の時に、家督を長男の景敬に譲り隠居。翌年に江戸深川黒江町(現江東区)へ出て隠居所を構えました。
 ここから彼に第二の人生が始まる事になります。 

 江戸にでた50歳の伊能忠敬は、長年伊能家の家業に専念して、できなかった勉学に打ち込み始めます。
  主に暦学を学び、当時使われていた暦が実際とは合わないことを多くの暦算家に質問しますが満足な答えが来ません。
 そんな中、幕府天文方の高橋至時が明快な答えを示し、忠敬は高橋と師弟関係を結んだと言います。もちろん、忠敬が弟子です。この時、高橋至時は31歳。周囲は「年下の者を師匠にするとは、物好きな男だ」と笑ったと言われます。

高橋至時マンガ

  高橋至時の元で、忠敬は猛烈に勉学に励み、高橋は忠敬のことを「推歩先生」とあだ名します。推歩とは暦の計算をすることです。
  忠敬は自宅に天文機器を揃え、毎日欠かさず正午の太陽を計り、夜はきまって星空を観測。寛政9年(1797)には、白昼の金星を観測したことは日本人初の快挙だったそうです。

 そんな中、地球の大きさはどれほどなのか、緯度1度の正確な長さが問題になります。
 忠敬は江戸市中で距離と星の高さを観測してある答えを導きだしますが、高橋至時は、その誤差の大きさを指摘します。実際に緯度1度の長さを測るには、江戸と蝦夷(北海道)ほど離れて観測しないと正確な答えは出ないでしょう、と。
 そこで忠敬は、蝦夷行きを願い出ますが、各地を勝手に測量する訳にもいきません。
 当時、蝦夷地にはロシア船が出没して国を脅かしていましたから、高橋至時は蝦夷の地図作製を理由に測量の許可を幕府に願い出ます。
 幕府はなかなか答えを出しませんでしたが、自腹を切手でも蝦夷に行きたいという忠敬の熱意に押されたのか、わずかな手当をもって測量を許可します。
 わずかと言っても、渡し船などの代金補助ぐらいものもで、宿泊などの旅費一切は忠敬が負担したといいます。測量にかける相当の熱意が伝わってきます。
 当然、50歳までの伊能家での家業成功が無ければ、切り出せないことであったことには違いありません。


 寛政12年4月、56歳の忠敬は江戸から蝦夷に向けて出発。従うメンバーには忠敬の子・秀蔵もいました。
 蝦夷では函館から根室近くまでの海岸線を測量、同年12月には地図を幕府に献上しています。さすがの高橋至時も、出発前は不安に思っていましたが、地図の予想以上の出来映えに感嘆したと言います。

 これを機に、忠敬は日本全国の測量と地図作製に情熱を燃やすことになります。
 先にも述べましたように、伊能忠敬の周辺は若死にする者が多く、正に「人間五十年」は言い過ぎな程短い寿命の時代にあって、50歳以降に勉学に燃え、更には徒歩で日本全国を歩くという離れ業を行った忠敬の姿には、本当に驚かされます。

 おそらく彼は、永遠の青年であったのでしょう。

 志を高く持ち、常に大きな目標に向かう気持ちを持つことは、何より自分に健康をもたらすのでしょう。
 私も、常に青年でありたいものです。 



参考文献
『新考 伊能忠敬 九十九里から大利根への軌跡』伊藤一男著 崙書房出版
『日本逸話全集』田中貢太郎著 桃源社
『伊能忠敬』伊達牛助著 古今書院
『その時歴史が動いた6』NHK取材班編 KTC中央出版
『NHKにんげん日本史 伊能忠敬』小西聖一著 理論者

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)