2013年7月31日水曜日

禍いと苦難を避ける一句「堪忍」

「堪忍」の一句の話。

 怒りの心とは、げに恐ろしいもので、路上でちょっと肩が当たったことから言い争いになり命を落としたという話もあります。
 腹を立てて暴言を吐いたり、乱暴を働いた後、大体の場合は後悔しかありません。
「あの時怒っておいてよかった」という例は、ほとんど無いのではないでしょうか。


 この「堪忍の一句」の話は各地にあるようで、特に参考にしたのは『譬喩尽』にある「龍渓禅師」の話です。

 龍渓禅師とは江戸時代初期の人。
 禅師の元で学問に励んでいた弘善という人に「秀才博識なりといえども、大道を知らない。文字言葉を離れたまっしぐらの大道の言葉を授ける」と言って禅師が告げたのが「堪忍」の言葉でした。
 何かあった時は、この「堪忍」の言葉を唱えて三歩下がりなさい、と禅師は言うのです。
 これを聞いた弘善は「なんだその程度、何が大道か」と心中あざけりますが、六年後実家に帰ると事件が勃発します。
  妻が留守番をしているはずが、家の中にいたのは妻だけではなく、ずきんをかぶった男でした……と、この後どうなったかは、マンガを見てください。 



『日本例話大全集』の中には「千両の堪忍袋」という題で、九州の話があります。
 ある九州の大名が「短気の治る妙薬が欲しい」と家臣に命じて、諸国へ探しに出かけさせます。
 そしてある町で見つけたのが「堪忍袋」という代物。
 粗末な木綿の袋の中に「まったり、まったり」と書いた半紙が1枚入っているだけのものが、千両という高額で売られていたのです。  
「いくらなんでも不埒な商売だ」と言えば「けっして高くはありません。千両はおろか、一万両でも安いと思う時があるでしょう」と返される。
 しぶしぶ千両で求めて実家に戻れば、妻の隣に仲むつまじそうな男の影が……。
「おのれ!」と刀に手をかけて暴れ込もうとした瞬間、堪忍袋から「まったり、まったり」と声が聞こえてきた。
 はっと気がついた彼は、一息ついて「ここは待ったり、待ったり」と冷静になり、家に入れば、その男の影は妻の父親でした。
 婿の長旅に、娘一人に留守居をさせるのが不憫と思った舅だったのです。
 堪忍袋を受け取った大名は「なんだこんなもの」と思ったものの、その家臣から聞いた妻と舅の話を聞くと、「なるほど、腹のたった時は、まったりまったりと思慮しなければならぬ。千両は安いものだ」と言って喜んだそうです。

 さすがに千両で売った人は、ぼろ儲けだろうと思いますけどね(笑)。
 ただ、ちょっとした誤解から生じた怒りの炎によって、千両よりももっと大事な妻の命を奪うところであった……怒りの心は恐ろしい、という教訓がよく分かる話です。  


 最近私の家では、子供に「宿題しなさい」と言ってもやらない、「ピアノの練習しようね」と言ってもやらない、「晩ご飯ですよ」と呼んでもテレビ見てて来ない、言うこと聞かない子供たちに妻が怒りのあまり怒鳴り散らす。
 それを聞いた子供は、余計に腹を立てて一層親に従おうとはしない……。こんな光景がよくあります。
 怒りの心にまかせて怒鳴るのは、実は簡単なこと。レベルは子供と同じ。楽な方法ではありますが、でも気持ちのいい解決にはなりません。
 その怒りの心を抑えて、子供がよい方向に向かうように諭して導くことは、これはかなり難しいことだと知らされます。かなり我慢しなければなりませんから、エネルギーを使いますよね。
 ですが、結果、怒りを抑えた方が、気持ちのいい結果を得ることができるものです。  

2013年7月17日水曜日

「敵に塩を送る」の語源・上杉謙信と塩の話

 平成24年(2012)10月、年に一度行われる「IMF(国際通貨基金)世界銀行年次総会」が東京で開催されました。
 日本での開催は48年ぶりの2度目。世界中の財務大臣や中央銀行総裁らが集う世界最大規模の国際会議です。
 その会議で、ラカルドIMF専務理事が『敵に塩を送る』という日本の故事を引き出し、「困難な時には、お互いを助け合うことが前進する唯一の道である」と演説しました。
 今や、『敵に塩を送る』という言葉は世界規模で知られることになった訳です。

 その語源は、多くの人が知る如く、戦国時代の武将・上杉謙信が、宿敵である武田信玄に塩を送ったという出来事から来ています。
 生涯のライバルであった上杉謙信と武田信玄……そう語られるのは後世のことであって、元々謙信は信玄をひどく嫌っていたという話もあります。
 しかし、信玄の死を聞いた謙信は「好敵手を失った」と号泣したとも伝えられ、また信玄は臨終に「困ったことがあれば義に厚い謙信を頼れ」と息子勝頼に遺言したとも言われます。
 川中島を中心に、お互いに痛い目に合いながらも、何かしら友情めいたものがあったと後の世の人が考えたくなるのも当然と言えば当然でしょうね。

敵に塩を送る

 さて、武田の領国は山に囲まれ海に接していないことに目を付け、塩止めを行ったのは駿河の今川氏真でした。
 今川義元を桶狭間で失った後の今川領内は混乱しており、また信玄の嫡男である義信は義元の娘と結婚しており武田家とは親戚関係でしたが、その武田義信は早くに死去し、それを機に信玄は駿河侵攻を始めます。
 窮した氏真は、隣国の北条氏康と計り、武田領国への塩商人の往来を禁止します。
 これは永禄十年の書状にあることから事実のようで、塩止めは数年続くことになったようです。


 この効果はどうであったのか。
 武田領内は相当な打撃を受け、吉川英治も小説の中で「三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない信玄も『いかにせんか』と日々屈託顔に見えた」と描いている程。
 かたや、駿河侵攻が早かった、はたまた越中から信濃に入る商人ルートがあったとして、打撃はそんなに大きくなかったのではないかという見方もあります。

 ちなみに、山梨県には「塩山」という地名があり、かつて岩塩がとれたという説がありますが、それはどうも違うようです。

 それにしても、塩が無いと味噌も漬物もできません。
 特に雪が降る山間部に置いて、保存食が作れないのは大打撃でしょう。
 昔、民放ドラマで『おんな風林火山』という番組があり、その中で甲斐金山で働く鉱夫が「うう、塩をくれ、塩を〜」とまるで薬物中毒者のような演技をしていました。まあ、それはあくまでドラマの演出であって行き過ぎでしょうが、じわじわと塩の無い苦しみは武田領内を襲ったことでしょう。

敵に塩を送る 意味

 その今川氏真は、当然ながら日本海側からの塩輸送も止める為、上杉謙信にも協力を求めたようですが、謙信は「我らには我らの策があるので」と断ったと吉川英治は書いています。
 そして、謙信自ら武田に塩を送ったかどうかは色々説があり定かではありませんが、塩商人の往来は止めなかったようです。
 武田信玄は、謙信に対して「福岡一文字」の名刀を送って感謝の意を表したと伝えられ、事実その太刀は現在重要文化財に指定されています。

 その謙信、かなりの酒好きであったと言われ、味噌や梅干しを肴に飲んでいたと伝えられます。
 その肴の塩分取り過ぎと飲酒により高血圧となり、脳溢血で死亡したという説が有力です。享年49。
「敵に塩を送る」……宿敵信玄に送った塩でまた、自分の死期を早めたのでしょうか。


 (参考文献)
岡谷繁実『名将言行録』
湯浅常山『常山紀談』 
奥野高広『武田信玄』
吉川英治『上杉謙信』
財務省編『IMF・世銀年次総会開催』