JR三江線の粕淵ー明塚間にある第一江川橋梁は、歩道が併設されていて、列車と平行して普通に通行することができるマニアックなスポットです。
江津から走ってきた三江線は、ここで始めて江川を渡ります。
1972年の水害でこの橋梁がやられた時、江津側に野井仮乗降場という仮の駅が設けられ、粕淵への渡し船が運行されたそうです。
今はありませんが。
2013年9月25日水曜日
2013年9月24日火曜日
『鉢木』「いざ鎌倉」の北条時頼廻国説話
鎌倉武士の心意気「いざ鎌倉」を描いた『鉢木』は、浄瑠璃や歌舞伎だけでなく、戦前の教科書にも掲載されていた程、よく知られた話だったようです。
最近はどうでしょうか。
結局この話の本来のテーマは「忠義」なので、戦前教育には都合がよかったのでしょう。マンガではそのあたり、視点を変えて描いています。
さて、この話が実際にあったのかどうか……正直、伝説の域に入っていると思われますが、『鉢木』にまつわる場所が佐野以外にも存在致します。
というのも、佐野源左衛門は北条時頼である旅の僧に「梅、桜、松」三鉢の盆栽で薪を作りねぎらいます。
その後、時頼はこの礼として源左衛門に、三鉢にちなんで「加賀国梅田庄」「越中国桜井庄」「上野国松井田庄」の領土を与えたことになっています。庄名が「梅、桜、松」とシャレていて出来過ぎなのですが、この三カ所には、それぞれ鉢木に関する石碑が建っているそうです。
例えば「越中国桜井庄」は現在の富山県黒部市にあった地名。県立桜井高校など今でもその名は残り、佐野源左衛門の話が伝えられています。
それにしても、幕府の最高権力者が大雪の日に、田舎をふらふらと歩いているものなのか。『鉢木』の話を聞いた人から、実際に質問されました。
この執権・北条時頼は善政を敷いた名君と言われ、特に農民など庶民を救済したことから、諸国を巡った伝説が生まれたようです。
つまり『水戸黄門』ドラマみたいなものです。
やはり実際に庶民の暮らしを直接見ないことには、世にはびこる悪を正すことはできない、ということなのでしょうね。
この北条時頼廻国説話は『太平記』や『増鏡』にあるようですが、時頼は30歳の若さにして病気を理由に執権を退き出家します。
嫡男時宗がまだ幼少だったことから、その代官として一族の北条長時に執権を譲ったのですが、実際はその後も院政のような形で政治の実権を握り続けました。
それは時頼が三十七歳で亡くなるまで続きましたが、執権時代のしがらみから逃れられたことは事実です。
そんな立場になったことも、廻国伝説が生まれた一つのきっかけだったのかもしれません。
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)
最近はどうでしょうか。
結局この話の本来のテーマは「忠義」なので、戦前教育には都合がよかったのでしょう。マンガではそのあたり、視点を変えて描いています。
さて、この話が実際にあったのかどうか……正直、伝説の域に入っていると思われますが、『鉢木』にまつわる場所が佐野以外にも存在致します。
というのも、佐野源左衛門は北条時頼である旅の僧に「梅、桜、松」三鉢の盆栽で薪を作りねぎらいます。
その後、時頼はこの礼として源左衛門に、三鉢にちなんで「加賀国梅田庄」「越中国桜井庄」「上野国松井田庄」の領土を与えたことになっています。庄名が「梅、桜、松」とシャレていて出来過ぎなのですが、この三カ所には、それぞれ鉢木に関する石碑が建っているそうです。
例えば「越中国桜井庄」は現在の富山県黒部市にあった地名。県立桜井高校など今でもその名は残り、佐野源左衛門の話が伝えられています。
それにしても、幕府の最高権力者が大雪の日に、田舎をふらふらと歩いているものなのか。『鉢木』の話を聞いた人から、実際に質問されました。
この執権・北条時頼は善政を敷いた名君と言われ、特に農民など庶民を救済したことから、諸国を巡った伝説が生まれたようです。
つまり『水戸黄門』ドラマみたいなものです。
やはり実際に庶民の暮らしを直接見ないことには、世にはびこる悪を正すことはできない、ということなのでしょうね。
この北条時頼廻国説話は『太平記』や『増鏡』にあるようですが、時頼は30歳の若さにして病気を理由に執権を退き出家します。
嫡男時宗がまだ幼少だったことから、その代官として一族の北条長時に執権を譲ったのですが、実際はその後も院政のような形で政治の実権を握り続けました。
それは時頼が三十七歳で亡くなるまで続きましたが、執権時代のしがらみから逃れられたことは事実です。
そんな立場になったことも、廻国伝説が生まれた一つのきっかけだったのかもしれません。
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)
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2013年9月7日土曜日
「中世夢が原」へ鉄道とバスを使ってアクセスした後、三江線乗車という無謀
歴史マンガを描いていると、当時の建物や生活風景など、どうしても資料が必要になってきます。
適当に空想で描く訳にもいきませんしね。ファンタジーマンガじゃないので。
それで、時間のある時に復元施設などを訪問しておりまして、例えば「福井一乗谷遺跡」の復元武家屋敷や町並み、茅葺きの民家など大量に写真に収めて来ました。
次のターゲットは、古民家が多く保存されている「川崎市日本民家園」か、室町期の武家屋敷や市場が再現されている岡山県「中世夢が原」。
岡山なら、島根への帰省の時に立ち寄れるな、と思って計画を立てたのですが……こりゃ大変な所にありますね…夢が原。
特に、1日のうちに夢が原を訪問して、JR三江線に乗車して石見川本駅まで行こうとしたので、相当に無理がある。
訪問計画立案に苦難した話は別としまして、とりあえず以下は訪問記。
同日中に「中世夢が原へ公共交通で行く」と「三江線で川本へ」という二つの条件を満たす為に、まずは朝の6時半に岡山駅へ。
JR伯備線6時54分岡山発に乗って、井原鉄道の乗換駅である清音駅へ。
キハ120ですか。
ローカル線じみているのに、ひたすら高架とは恐れ入りました。
そして矢掛駅に7時39分着。
この矢掛駅から北振バスの「三山・平谷線」に乗り換えなのですが、一日7往復しかなく、駅発が7時40分。これ、井原鉄道と接続してるの?
……一応、北振バスにあらかじめ電話で聞いておきました。接続している、と。平日はスクールバスの意味もあるそうで、それならせめて「7時42分発」などにしておけば、私のような旅行者が不安に思うこともないだろうに……。
で、バス乗車。私の他に乗客はいません。
古びたバスですが、地域に密着しているのでしょうね、県道はバイパスを通らずにひたすら旧道らしき狭い道を走るんですよ。誰も乗車してきませんが。
しかも、途中とんでもない山の中を走ります。これ、どこへ行くんだ……。
そして、目的地の「美星診療所前」バス停に到着。8時10分。バス料金は片道500円。
ここから、とぼとぼと歩きます。
だいたい15分もかからずに「中世夢が原」に到着。
開場は9時30分なので、自販機の前の休憩コーナーでひたすら読書して待つ。
……ほんと、誰もいない。平日ですものね。
私にとっては、これほどありがたい施設はないのですが、何かイベントでもない限り、一度見てから再び訪問しよう、とはなかなか思えないですよね。
小さな子ども連れで楽しめるようなアトラクションでもないですし。
聞けば最近はコスプレイベントがあるようで……なるほど、中世屋敷の前で写真を撮れるというのは、レイヤーさんには嬉しいプレイスですね。
で、500円を払って入場。
私の他に、お客は誰もいません。平日ですものね。
でも、いやー、とても楽しめました。
中世の武家屋敷、山城跡、市場、農家などの復元施設は、どれも生活感あふれる造りになっていて、資料としたい私はもう写真撮りまくりですよ。
ありがとうございます、美星町!
市場で、係の方から声をかけられました。
「是非、すいかを食べていってください」
えーと……と、戸惑っていると、
「いえいえ、お金はいりません。というか、食べるのを手伝ってほしいのです」
とのことなので、遠慮なく頂くことに。
隣では、おじさんが机らしきものを作っていました。
「施設も古くなってきて、いろいろと直さねばならないところがあるのだが、みんな手作業だよ!」
と、半分面倒そうに言ってます。
すいかも、このおじさんの作物なのだとか。
夢が原も22周年だそうで、確かにあちこち痛んでいる感じがします。いや、その痛み具合がまた素敵な雰囲気を出しているのですが、何ぶん中世再現の堀立柱は痛みが早いですから、保全も大変でしょうね……。
「……おまけに、建物はみんな、ちょうなで削ってますよね。これ建てるの大変だったでしょうね」と聞けば、
「それは最初だけだね。さすがに修繕に再びちょうなを使おうなんて面倒なことは思わないよ」と、電動カンナで作業続行。
で、さて、1時間半程度見たところで、そそくさと夢が原を後にします。
まあ、少し駆け足でしたが、全部見れました。まあ、楽しむには最低でも2時間は欲しいですね。
美星診療所前バス停を11時29分発のバスで矢掛駅に戻ります。
これで戻らないと、三江線に乗れないのです。
バスはフリー乗車区間があるそうで、途中、道ばたで手を挙げているお婆さんなどを乗せつつ、矢掛駅12時に到着。
12時半の列車まで、昼食でもと思いますが、駅周辺を歩いてみても、何もないですね。お好み焼き屋らしき店が見えましたが、短時間では無理でしょうし。
(ちなみに矢掛駅にはコインロッカーありません)
空腹のまま井原鉄道乗車。12時32分。
その後は、福山14時20分発の福塩線で、府中乗り換え、三次着16時54分。
三次発16時56分発、浜原行き。浜原30分待ちで江津行きに乗り換え。
その後はどうなったかは、「三江線 橋脚流出直前の便に乗っていた」をご覧ん下さい。
……それにしても、乗り換えに時間ないですね。列車はのんびり走るのに、なんで接続がせっかちなのか、福塩線と三江線は……。
適当に空想で描く訳にもいきませんしね。ファンタジーマンガじゃないので。
それで、時間のある時に復元施設などを訪問しておりまして、例えば「福井一乗谷遺跡」の復元武家屋敷や町並み、茅葺きの民家など大量に写真に収めて来ました。
次のターゲットは、古民家が多く保存されている「川崎市日本民家園」か、室町期の武家屋敷や市場が再現されている岡山県「中世夢が原」。
岡山なら、島根への帰省の時に立ち寄れるな、と思って計画を立てたのですが……こりゃ大変な所にありますね…夢が原。
特に、1日のうちに夢が原を訪問して、JR三江線に乗車して石見川本駅まで行こうとしたので、相当に無理がある。
訪問計画立案に苦難した話は別としまして、とりあえず以下は訪問記。
同日中に「中世夢が原へ公共交通で行く」と「三江線で川本へ」という二つの条件を満たす為に、まずは朝の6時半に岡山駅へ。
早朝の岡山駅前 |
岡山駅の伯備線ホーム |
清音駅で井原鉄道に乗り換え |
ローカル線じみているのに、ひたすら高架とは恐れ入りました。
そして矢掛駅に7時39分着。
矢掛駅 |
……一応、北振バスにあらかじめ電話で聞いておきました。接続している、と。平日はスクールバスの意味もあるそうで、それならせめて「7時42分発」などにしておけば、私のような旅行者が不安に思うこともないだろうに……。
美星方面のバス来ました |
古びたバスですが、地域に密着しているのでしょうね、県道はバイパスを通らずにひたすら旧道らしき狭い道を走るんですよ。誰も乗車してきませんが。
ひたすら狭い旧道を走るバス |
そして、目的地の「美星診療所前」バス停に到着。8時10分。バス料金は片道500円。
ここから、とぼとぼと歩きます。
だいたい15分もかからずに「中世夢が原」に到着。
開場は9時30分なので、自販機の前の休憩コーナーでひたすら読書して待つ。
こんな場所があって助かります |
私にとっては、これほどありがたい施設はないのですが、何かイベントでもない限り、一度見てから再び訪問しよう、とはなかなか思えないですよね。
小さな子ども連れで楽しめるようなアトラクションでもないですし。
聞けば最近はコスプレイベントがあるようで……なるほど、中世屋敷の前で写真を撮れるというのは、レイヤーさんには嬉しいプレイスですね。
で、500円を払って入場。
私の他に、お客は誰もいません。平日ですものね。
武家屋敷の向こうに美星天文台が |
中世の武家屋敷、山城跡、市場、農家などの復元施設は、どれも生活感あふれる造りになっていて、資料としたい私はもう写真撮りまくりですよ。
ありがとうございます、美星町!
市場で、係の方から声をかけられました。
「是非、すいかを食べていってください」
えーと……と、戸惑っていると、
「いえいえ、お金はいりません。というか、食べるのを手伝ってほしいのです」
とのことなので、遠慮なく頂くことに。
隣では、おじさんが机らしきものを作っていました。
「施設も古くなってきて、いろいろと直さねばならないところがあるのだが、みんな手作業だよ!」
と、半分面倒そうに言ってます。
すいかも、このおじさんの作物なのだとか。
夢が原も22周年だそうで、確かにあちこち痛んでいる感じがします。いや、その痛み具合がまた素敵な雰囲気を出しているのですが、何ぶん中世再現の堀立柱は痛みが早いですから、保全も大変でしょうね……。
「……おまけに、建物はみんな、ちょうなで削ってますよね。これ建てるの大変だったでしょうね」と聞けば、
「それは最初だけだね。さすがに修繕に再びちょうなを使おうなんて面倒なことは思わないよ」と、電動カンナで作業続行。
天文台が邪魔だなー |
まあ、少し駆け足でしたが、全部見れました。まあ、楽しむには最低でも2時間は欲しいですね。
さようなら、夢が原! |
これで戻らないと、三江線に乗れないのです。
乗客がいないバスが来た |
一応、矢掛駅で切符買えます |
(ちなみに矢掛駅にはコインロッカーありません)
空腹のまま井原鉄道乗車。12時32分。
その後は、福山14時20分発の福塩線で、府中乗り換え、三次着16時54分。
三次発16時56分発、浜原行き。浜原30分待ちで江津行きに乗り換え。
その後はどうなったかは、「三江線 橋脚流出直前の便に乗っていた」をご覧ん下さい。
……それにしても、乗り換えに時間ないですね。列車はのんびり走るのに、なんで接続がせっかちなのか、福塩線と三江線は……。
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