ラベル マンガ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル マンガ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年11月11日水曜日

エルトゥールル号の遭難

日本とトルコの間には、温かく深い交流のドラマがあります。 

それは映画『海難1890』(2015年公開)でも描かれた、「エルトゥールル号」の事故と救命活動を通して歴史に刻まれています。 

エルトゥールル号の遭難
 

 明治23年(1890)、日本とトルコ(オスマン帝国)との友好関係を結ぶため、トルコ軍艦エルトゥールル号が日本にやって来ました。
 木造軍艦でした。 

 このころ、帝政ロシアの南下政策に悩まされていた両国にとって、お互いに特使を派遣し合うのは大きな意味がありました。
 また、オスマン帝国軍艦は地中海内海以外に出たことがなく、その権威を示す為にも極東への派遣が実行されたとも言われます。ただ、エルトゥールル号が老朽艦だったため、反対する声もあったようです。
 そのせいなのか、事故や修理のために、トルコ出港から日本まで航海に1年かかったと言います。

 ともあれ、

 日本での任務を終えて横浜を出港して帰国の途中、紀伊半島南端の大島付近で台風に襲われます。(出港前、日本側は台風の季節を心配して、出発を遅らせることを提言したといいますが、オスマン側は受け入れませんでした)
 9月16日午後8時半ごろに、樫野崎近海の岩礁に激突。船は爆発を起こして沈没してしまいました。

 このあたり、熊野灘は特に航海には危険な場所でした。

  約600人いた乗組員は、荒れ狂う暴風雨の中、真っ暗な海へ投げ出されました。

座礁するエルトゥールル号

 幸いにも海岸へ泳ぎ着いた人の中で9人が、断崖の上にある樫野崎灯台を目指して断崖をよじのぼり、助けを求めます。
 突然の出来事ながらも、灯台に詰めていた二人は懸命に治療を行い、言葉が通じない中にも国旗資料を見せることでオスマン帝国の軍人であることが分かります。

国旗を指差すトルコ軍人

  また、爆発音を聞いた村人たちが不振に思い、海岸に打ち上げられている外国人を発見し、生存者の捜索に乗り出します。

  当時、大島はわずか400戸たらずで電気も電話もない貧しい村でしたが、村民あげての救命活動が始まったのです。

 (つづく)

 (マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)



 

2017年10月28日土曜日

YKKの創業者・吉田忠雄『善の巡環』


 日本を代表する巨大企業・YKKの創業者である吉田忠雄は富山県魚津市の生まれ。
 貧しい家に生まれ、満足に教育を受けられなかった人ですが、尋常小学校の時に読んだ伝記『カーネギー伝』に大きな衝撃を受けます。
 カーネギーとは世界の鉄鋼王と言われる企業家ですが、貧しい家庭に育ったため公的な教育はあまり受けておらず、それでも地道に努力して製鉄工場を設立し、大成功を収めた人物です。
 カーネギーの成功の秘訣は「他人の利益をはからなければ、自らも栄えない」という教訓を生涯懸けて実践したからだ、と語っています。

YKK 吉田忠雄

 この言葉が、吉田少年の胸に深く刻まれ、やがて『善の巡環』という吉田独自の経営理念が生まれます。
 少年時代の読書体験が、これほど劇的に、人生を左右するものでしょうか。
 まあ、私も小学校の時に出会った『ドラえもん』に衝撃を受けて、やがて絵を描く仕事になったわけですが、あまりにレベルの違いすぎる話ですね。
 それはともかく、子供の頃の「物語との出会い」は極めて大切なことだと思います。
 逆に言えば、親として、大人として、子供たちにどれだけ有意義な物語を提供できるか、それが未来の世界を築く上でどれほど大事なことなのか、知らされますよね。

2017年10月27日金曜日

豊臣秀吉拝領の乙御前釜

豊臣秀吉と乙御前釜


 秀吉が信長から「乙御前の釜」を拝領した話は『信長公記」にも記される歴史的事実。
NHK大河ドラマでも「おんな太閤記」や「軍師官兵衛」でも描かれたシーンです。

「おんな太閤記」では信長(藤岡弘)から直接秀吉(西田敏行)が受け取っていましたが、実際は信長留守中の話でした。
 そこは「軍師官兵衛」では留守中のこととしっかり描かれ、乙御前釜を拝領した秀吉(竹中直人)が大変感激していましたね。
 ただ、実際に拝領された釜は現在どうなっているかは分かりません。

『マンガ 歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい大切な心』第5巻に収録された『乙御前釜』の写真は、京都の大西清右衛門美術館に掲載許可をもらったもので、江戸時代初期に作られたものですので、実際に秀吉が拝領した釜に近い形であろうと思います。


2015年2月26日木曜日

鳥屋野の逆さ竹 〜越後の七不思議(1)〜

 上越から北陸自動車道を北上、その終点の新潟西インターとJR新潟駅の中間に位置する湖が、鳥屋野潟です。
 この湖のほとりに、枝葉が下へ向かって逆さにのびる特殊な竹が生えています。これが、親鸞聖人の越後七不思議の一つ、「逆さ竹」です。

 逆さ竹の伝承によりますと、
「ある日、親鸞聖人が、手にしておられた竹の杖を大地に差され、『私の伝えている教えが真実ならば、この枯れた竹から根が生じ大きく茂るであろう』と仰せになった。すると、まもなく、その竹が大きく育ち、大竹林を形成した。
 しかも、不思議なことに、竹の枝が枝垂れ柳のように逆さに生えている。此れは、聖人が竹杖を大地に差される時、根元の方を上にされたからである」
 とのことです。

 実際、国の天然記念物に指定されているのですが、最近はどうもなかなか逆さに枝を伸ばす竹が見つからないとも聞いています。
 おそらく突然変異なのでしょう。まさか逆さに指した竹が本当に根付くとは思えませんし、浄土真宗はそのような奇跡を是とする教えでもありませんが、その伝承に込められた心には、実は深いものがあるのです。

逆さ竹


逆さ竹

七不思議


 やはり、親鸞聖人にまつわる出来事として語り継がれるには、それ相当の意味がありました。

「浄土の法義を示したまうといえども、疑謗の輩つねに多く、信従の人ははなはだ稀なりければ、聖人深くこれを歎じて、『この里に親を亡くした子はなきか、御法の風になびく人なし』と詠じたまい、すなわち持するところの竹杖を地にさし、願じていわく、『わが弘むるところの法、もし仏意にかなわば、この枯竹、必ずまさに根芽を生ずべし』と。すでにしてその枯竹、果然として根を生じ芽を発す」(竹林御旧蹟鳥屋野院略縁起)

 なるほど、逆さに延びる枝は、親鸞聖人の説かれる教えになかなか聞こうとしない民の姿をたとえたのでしょう。
 冷たい扱いを受けられながらも、それでも「この里に親を看取った人がいるだろう、そのことから世の無常を観じたことだろう、どうかそれを縁に、浄土真宗の教えを聞いてもらいたい」
 その布教のご苦労を、後世に伝える為に、逆さ竹を縁としたのだろうと、私は思います。


2015年2月11日水曜日

Comic Studio 3.0をMacOSX 10.7で

Comic Studio 3.0をMacOSX 10.6までは使えていましたが、さすがに10.7にすると使えなくなりました。
悲しい。

コミックスタジオ3をOSXで


2015年1月15日木曜日

日本サッカーの父 デットマール・クラマー(前編)

昭和三十年代前半、サッカー日本代表チームはアジアで最弱でした。
その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。

クラマー01

クラマー02

西ドイツへ


クラマー04

当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?

1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。

死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。

では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。

クラマー05


クラマー06


日本チームはアレマニア・アーヘンチームと親善試合を行います。その日本の試合ぶりを初めてみたクラマーは「ショップ、ショップ、アーヘン」と叫んだと言います。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。

クラマー07

「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」

クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。

クラマー08


しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。

クラマー09

クラマー10

そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。

幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。

(後編へつづく)

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)



2014年10月22日水曜日

ベーブ・ルースの奇跡「約束のホームラン」

 ホームラン王と言えば、日本では決まって王貞治ですが、世界規模で見て第一に挙げられるのは、何と言ってもベーブ・ルースでしょう。

 ベーブ・ルースは、1895年のアメリカ・メリーランド州生まれ。両親はドイツ系移民で、生活は大変貧しく、あまりに腕白に育った為に彼が7歳の時に孤児院に預けられます。そこで教官から野球を教わりました。

 1914年にレッドソックスの投手として野球生活を始めます。孤児院育ちで子供じみた所があってか、チームの中では「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名されます。
 その後、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍。その年に54本のホームランを叩き出し、1927年のシリーズでは60本本塁打を達成。1935年の引退までに、通算714本のホームランを打ち、この記録は1974年まで破られませんでした。

 ヤンキースはルース在団中に相当な収益があり、ヤンキースタジアムは「ルースが建てた球場」の愛称を持ちます。

 ベーブ・ルースは、その生い立ちも関係してか、かなり子供好きであったようで、幼いファンの求めに気軽に応じてサインしまくっていましたし、試合後に集まる子供たちにも気楽に声をかけていました。ファンサービスたっぷりのルースは、正にアメリカンドリームを体得したアイドルだったのです。

 世界一のホームランバッターである国民的アイドルに声を掛けられれば、ファンは飛び上がるどこではないビッグな喜びを得ることでしょう。事実、そこから「ルースの奇跡」と呼ばれる信じられない物語が起きています。
 その一つが、マンガで紹介する「ジョニー・シルベスターの奇跡」です。

約束のホームラン


ジョニーの病気は重く、医者も見放す状態。
 大のベーブルースファンであったジョニーに、せめてもの喜びをと父親は、ルースに「手紙 を……よければサインボールを送ってもらえないでしょうか」とダメもとで依頼します。
 すると、翌日に大事な試合を控えていながらも、ルースはジョニーを直接見舞いに行きます。スーパースターが、一人の少年ファンの為に来てくれるというのですから父親もさぞ驚いたことでしょう。


ジョニーの奇跡

マンガ ベーブ・ルース「約束のホームラン」

ベーブルース 約束のホームラン

 この話はルースの自叙伝の中で本人が記していることなのですが、彼のホームランによって、医者も見放した病気を克服したというのですから、本人もさぞ驚きの出来事であったのでしょう。

 この「ジョニーの奇跡」の話には後日談がありまして……ルースがジョニーを見舞った翌年、ルースはあるホテルのロビーで「私はジョニー・シルベスターの叔父です」と名乗る男性と出会います。
 ルースは、完全にジョニーのことを忘れていて、適当に
「そのジョニーはどうしているかね?」と答えます。
 するとジョニーの叔父は、ルースの両手を握りながら
「奇跡が起きたんです。ルースさん、あなたがジョニーにしてくれたことを、私たち親族は一生忘れません」と言うではありませか。
 「それはよかった。ではジョニーによろしく」
とまあ、適当に受け答えして男性と分かれたルースは、周囲にいた記者たちに聞きます。
「なあ、聞いたか。彼はジョニーと言っていたが、ジョニーって誰だっけ?」
「ベーブ、もう去年のことを忘れたのかい?」と、記者はルースをからかった、という話が自叙伝に記されています。
 もうファンが多すぎて、誰がどうなっているのか、彼にはどうでもよかったのかもしれませんが、何とも微笑ましい話です。


 ジョニーはその後、潜水艦乗組員となり、第二次世界大戦では南太平洋で闘ったそうなので、おそらく対日本軍の戦闘だったのでしょう。それはともかく、晩年に病床にあったベーブ・ルースを、今度はジョニーが訪れ、彼の自叙伝には「ベッドに寝たままの僕を見舞ってくれて、ジョニーは激励してくれている」と記されています。

 この話は「約束のホームラン」とも称され、その後アメリカだけではなく、日本でもテレビなどで紹介されました。


 他にも、試合後の球場外にいた男の子に「やあ、こんにちは坊や」と声をかけると、彼は驚いてスッと立ち上がった、という話があります。実はこの男の子、病気のために二年間立てなかったそうで、ベーブ・ルースは一体どんな魔術師だよと思ってしまいますね。

 しかし、そんな魔術は無いにしても、相手を思いやる心、励ます言葉には、思いもよらない力を持っていることに違いありません。たかが言葉……されど言葉。心を込めた、優しい言葉を、わたしたちも掛けていきたいですね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)

2014年6月6日金曜日

鯖江の親鸞聖人旧跡「車の道場」の車は、粗末な車だった?

承元元年、越後へ遠流となった親鸞聖人が、その途中・越前の鯖江にて立ち寄られたという「車の道場」があります。
これは、現在の福井県鯖江市にある真宗誠照寺派の上野別堂のこと。
現在は、寝殿造りの本堂が、ポツンと建っています。

元々は、この地の豪族・波多野景之の屋敷でした。もともと信仰に厚かったと言われる景之が、親鸞聖人から教えを請うために招待しました。

鯖江

その時の様子を、寺伝には、「聖人輿をよせ、車を止めたまいし由緒をもって、世人呼んで車の道場という」とあります。
つまり、親鸞聖人は輿(車)に乗せられて訪れられた、だから『車の道場』と呼ばれるようになった、というのです。
伝承に沿って作られた伝絵には、輿に乗っておられる聖人が描かれています。

しかし、それは後に聖人の権威を落とさないように寺で配慮して描かれたものであろうと思います。この時、罪人としての扱いを受けられていたでしょうから、やはり農作業用の粗末な車に乗せられてきたと考えるべきでしょう。

車の道場


ともあれ、越前の道は相当険しく、親鸞聖人は御足を傷められ、やむなく車に乗せられたのでしょう。

景之は、屋敷に到着された親鸞聖人を、近くにあった井戸水に案内し、聖人はお疲れを癒されたと伝えられます。傷を冷やされたのでしょう。その井戸は、「承元の井」といわれ、今でも「車の道場」の前に存在します。


2014年2月26日水曜日

息子 黒田長政の異見会(福岡城 釈迦の間の「腹立たずの会」)【軍師・官兵衛】

 NHK大河ドラマ『軍師・官兵衛』で大きな話題となった黒田官兵衛と長政親子。
 二人は関ヶ原の合戦で徳川方に付き大きな武功を上げ、豊前中津十二万石から一気に筑前五十二万石の大名となりました。

 その長政、福岡を如何にまとめて統治して行くか……そこで設けられたのが『福岡城釈迦の間の異見会』でした。
『腹立たずの会』とも呼ばれます。
 会合が行われた床の間には、お釈迦さまの姿を描いた掛け軸があったので『釈迦の間』と呼ばれたようです。
 もっとも、この会の開催を勧めたのが、父・官兵衛だったとも言われます。

腹立たずの会


黒田長政

  領内での問題に限らず、個々人の言動まで対象となった異見会では、さすがに進行役の長政自身が腹を立てることも多く、家臣になだめられることがあったとか。
 難しいですよね、現代社会の企業でこのような会合を設けたら、相当のストレスを生むでしょうし、あらぬ恨みを買い、ハラスメントで訴えられることにもなりかねない気もします。

長政の異見会

 ですが、功の面が大きかったのでしょう、長政はこのイベントを大変気に入り、末永く続けるように遺書で勧めています。事実、明治四年の廃藩置県まで続いたと言われています。
 きっと、現代では計り知れない主従の間での「思いやり」があったのでしょう。『名将言行録』には「心に思うことを相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らざる様にして、誠に親切なる議論なり」とあります。

  さて、長政の跡を継いだのは長男の忠之でした。
 ところが忠之はわがままな性格だったようで、家臣の諌言を受け入れずに、好みの人材を重用した為に『黒田騒動』を引き起こします。
 この騒動は何とか乗り切り黒田家の改易取り潰しはありませんでしたが、長政の精神を続けることの困難さが伺い知れますね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)

 >> 黒田長政の「腹立たずの会(異見会)」(Pixiv)



2014年2月21日金曜日

【二宮金次郎(2)】桜町領復興と「根っこの藤助」

 小田原藩主・大久保忠真に見いだされて、下野国の桜町領の復興を命じられた二宮金次郎。当時の桜町はどれほど荒廃していたのでしょうか。

 そもそも、元禄の分知当時は戸数は433軒でしたが、二宮が訪れた時は145軒まで減っていたといいます。
 それほど年貢の取り立ては厳しく、逃げ出す者も多かったのです。

 なぜでしょうか。
 それは、分知時の石高は四千石余りでしたが、この時の桜町の生産能力は八百石まで落ちていたと言います。しかし藩の役人は四千石の計算のままで取り立てますから、厳しくなる筈です。
 ですから、そこに住む人の心も荒れ果て、貧しくなるのも当然でしょう。220町あった農地も、120町も荒れ地を出していました。
 小田原藩としては何とか立ち直らせようと、小田原より役人と莫大な資金を投入してきましたが、ことごとく失敗していました。

 二宮は調査により、もともと痩せている土地なので、桜町をどんなに復興しても二千石までにしか戻せない旨、藩主に伝えて了解をもらい、復興最終目標二千石という無理の無いプランを立てて行くことになります。 
 ところが、土地も荒れ果てていれば、人の心も荒れた桜町でしたから、二宮の改革はそう簡単には進みませんでした。
 二宮のやり方に反発し、讒言をし、妨害をする人も少なくなく、困難を極めます。

 ただ、さすが農民出身の二宮だけあり、百姓たちの心を少しずつ捉えて復興を進めていきました。
  その、様々なエピソードの中でも有名なものを描きました。




  特に、開墾場に常陸国笠間から出稼ぎに来ていた「藤助」という老人が、力が無いながらも陰日なたなく働くので、二宮は賃金として大金を彼に渡したという逸話があります。


根っこの藤助


桜町領

根っこの藤助


 役人の目を欺こうとする者には厳しい態度で臨み、自分の精一杯でコツコツ頑張る者には多くの褒美を与えました。
 人に見せるための仕事を嫌い、心をどれだけ打ち込んで仕事をしているか、重視したのですね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第3巻』より)


2014年1月29日水曜日

【二宮金次郎(1)】勤勉の姿と、若き苦難の日々。そして桜町領〜

 薪を背負って、本を読みながら歩く姿と言えば二宮金次郎ですね。
二宮尊徳

 小学校にある銅像と言えば金次郎と言われるほどでしたが、最近はその数を減らしてきているようです。
「寸暇を惜しんで勉強した」象徴なのですが、斜めから見ると「戦前思想の押しつけだ」だの「子供に労働させている」だの「歩きながらの読書は危ない」といった意見もあるようで。

 確かに、現代的に言えば、携帯やスマホを見ながら歩いている姿になるのでしょう。スマホ見ながら歩く「ながら」は禁止する傾向にありますし、実際、スマホを見ながら歩いていた青年が踏切に気がつかず電車に敷かれて死亡した例もあります。
 ……そう、本やスマホ見ながら歩いては危険ですので、やめましょう。 


 それはさておき、二宮金次郎こと二宮尊徳の物語なのですが、子供時代のことを相当短縮してしまいましたので、ここで補記したいと思います。

二宮金次郎 マンガ


 二宮尊徳は、天明7年(1787)相模国、今の神奈川県小田原市栢山に百姓の子として生まれました。
 父親の利右衛門はかなりいい人で、知人からの懇願に応じて素直にお金を貸すなどしていましたが、悪い言い方をすればかなりのお人好し。それが仇となって、次第に二宮家は貧しくなります。
 更に金次郎5歳の時、酒匂川の洪水により二宮家の田畑は流失し、貧困のどん底に陥ります。

 病気がちの父親を助ける為に、金次郎は堤防工事に働きに出ます。しかし10歳そこそこの子供が工事の役に立つ訳もなく、金次郎はかわりに草鞋を作って村人に提供したといいます。
 また、働いて得た二百文の金で、ある老人から売れ残りの松の苗を買い取り、それを堤防に植えました。
 その松は今でも酒匂川の並木として残っているのですが、堤防に張った松の根っこでより丈夫になったそうです。

  必死に働く金次郎ですが、14歳の時に父・利右衛門が亡くなり、その2年後には母も他界。貧しさの原因の一つは、父親の無学にあると悟ったことが、後に彼を勤勉の象徴にのし挙げる原動力になったとも言われます。  

 父母を亡くした金次郎は伯父・万兵衛に、弟二人は母の実家に預けられます。
 金次郎は伯父の家で必死に働く傍ら、寸暇を惜しんで勉学に励みました。
 そんな姿を伯父・万兵衛はよく思わなかったようで「灯火の油がもったいない。農業に勉学などいらぬ」と叱りつけます。
 それでもめげない金次郎は、自分で菜種を植え育て油を得て、伯父の部屋に光が漏れないようにと行灯に服をかぶせ、隠れるように勉強を続けたと言われます。

 更に、捨て苗を拾い集めて川土手の荒れ地に田を設けて育て、1俵余りの米を収穫しました。これを「積小為大の発見」と言われ、金次郎は農業の面白さを知らされるのです。

 益々必死に働く金次郎は、荒れ果てた二宮家の田畑を少しずつ買い戻し、20歳にして生家の再興を果たしました。

 その後も少しずつ広げた田畑は小作に出して収入を得て、地主の地位を得ます。
 金次郎は相当しっかりした体格であったと伝えられ、だからこそこれだけの働きができたとも言えるのでしょう。
 しかし、すぐに年貢がかからない新田開墾に力を入れ、土地を得れば小作に出し、自分は武家奉公に出て収入を得、お金が貯まれば貸金にするという、やりくり上手でもありました。
 勤勉によって得た知恵からくるものでありましょう。  

 地主経営の傍ら、小田原にて武家奉公人として働き、奉公先の小田原藩家老・服部十郎兵衛が金次郎の才能に目を付けます。
 巨額の借金に苦しんでいた服部は、家計立て直しを金次郎に依頼。金次郎は倹約策を進めますが、ただ節約するだけではめいるので、奉公人たちがやる気を出して働けるように創意工夫します。
 例えば、物品購入の為に奉公人を使いに出す際、金次郎が定めた額の金を渡しますが、「更に安くてよい品物を購入した場合、それはお前の成果だから、釣りはそのままもらっていい」ことにして、喜ばせたと言われます。  
 そして服部家の借金は返済され、5年間で見事家計立て直しに成功します。  
 服部は金次郎に、その成果報酬の金百両を与えようとしますが金次郎自身は受け取らず、自分のやり方についてきてくれた他の奉公人に配ってしまったといいます。
 何と気持ちのいい男なのでしょう。  

二宮尊徳 マンガ


 この服部家のことが藩主・大久保忠真の耳に入ります。藩政の改革で、身分に関係なく人材を求めていた忠真は金次郎に声を掛けます。
 しかし、身分の違いを気にする家臣たちの反発を買ったため、仕方なく忠真は、小田原藩の分家である宇津家の桜町領の復興を金次郎に命じました。
 桜町領は、小田原藩の飛地で、下野国・現在の栃木県真岡市にありました。小田原から遠く離れた土地のことなら、家臣も文句を言わないだろうと考えたのです。確かに、桜町領で成功を治めてから藩政に登用すれば、家臣も納得することでしょう。

二宮尊徳 漫画


  既に結婚して幼い子供もいた金次郎は、小田原の家を売り払い、桜町領に移住するという相当の決意を持って歩みだします。
 前述の通り、並々ならぬ努力によって再興させた生家を手放すのは、つらい事であったに違いありません。  
(つづく)

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第3巻』より)



2013年10月29日火曜日

石田三成の三献茶と土木事業

 石田三成と言えば「三献茶」
 最近ヒットした映画『のぼうの城』の中で、なかなか戦功のない石田三成に親友・大谷吉継から「それだから、いつまでたっても三献茶の三成と言われるんだ」といったセリフを掛けられるシーンがありました。なるほど、三という数字に掛けてるってことでしょうか。

 石田氏は元々近江国坂田郡石田村の土豪で、三成は石田正継の次男として生まれます。幼名は佐吉。
 土豪でも貧しく、三成は寺に預けられていたとも、また寺に通って勉学していたとも伝えられますが、ともあれ近くの観音寺に寺小姓としていた時に、鷹狩りをする秀吉との出会いがありました。


 今でも、JR長浜駅前には秀吉に茶を献上する三成の像が立ち、観音時には三成水汲みの池と伝えられる井戸が残されているほど、地元では親しまれている逸話です。

 当時、長浜城主として任に着いたばかりの秀吉であった為、鷹狩りには領内視察の意味もあったことでしょう。
 元は敵地であった場所で、気楽に寺に入って茶を所望するあたり無防備すぎる気もしますが、この三献茶の話そのものが創作であるという説が強いので、そのあたりは突っ込まないことにしましょう。

石田三成の三献茶

石田三成の三献茶


 ただ、後世の創作であったにしろ、石田三成は非常に機転の効く、有能な人材であったことには違いありません。
 秀吉政権の中でも、文人派奉行として、財務、太閤検地、諸大名の所領替、兵站や戦後処理などに手腕を発揮しました。


 その三成の活躍話の一つに、淀川の洪水の話があります。
 『名将言行録』にある話なのですが、秀吉が大坂城を築いてまもないころに起きた堤防決壊なので、さすがの秀吉も現場で陣頭指揮を執ったと言われます。

石田三成と米俵

 大雨による堤補修の責任者を願い出た三成は、すぐに大坂城京橋口の米蔵を開け、何百何千という米俵を運び出し、洪水を塞き止めて大阪の町を守りました。
 この機転、なかなかできることではありませんし、また日頃から兵糧調達の任務をしていたからこそできた芸当でありましょう。

 更に、雨が上がった後、付近の住民に「丈夫に作られた土俵三俵を持ってくれば、この米一俵と交換してもよい」とふれを出し、大いに喜んだ民により堤防は以前よりも増して頑丈に仕上がったと伝えられます。

 話だけ聞くと、現代にも負けず劣らない土木工事が行われたように思われます。
 本当かよ?と思う人もあるでしょう。
 ただ、豊臣秀吉は、備中高松城の周囲に長さ4km、高さ8mほどの堤防を短期間で築いて水攻めを行ったことで有名なように、土木事業に大変長けていました。
 秀吉による紀州雑賀征伐でも、7kmもの長大な堤防を築いて太田城を水攻めにしており、石田三成自身も関東・忍城攻めの時に水攻めを行い、現在でも「石田堤」の名前で遺構が残っています。この時の堤防は28kmにも及んだと言いますから驚きですね。
 この忍城攻めが、前述の映画『のぼうの城』で描かれています。



 そんな優秀な石田三成ですが、性格がかなり横柄で傲慢だったようで、さらに関ヶ原の負け戦から歴史上いいイメージがありません。
 いや、三成は関ヶ原では善戦したと思うのですよね。
 元々家康は、三成ごときが反徳川の兵を集められるはずがないと思っていたようですし、小早川などの裏切りがなければ兵力の上で家康を圧倒していましたからね。

 そのようにさせたのは、三成の、秀吉に対する熱い忠義の姿勢であったことは違いないのでしょう。
 家康自身も「三成は、さすが大将の道を知るものだ」と言い、後に徳川光圀も「義を尽くした三成のことを悪く言うものではない」と言ったそうです。

 それもあってか、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』の中で江守徹が、義を貫こうとする石田三成を見事に演じていました。
 あの番組で、三成のイメージがかなり変わった気が(私は)しています。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)