二人は関ヶ原の合戦で徳川方に付き大きな武功を上げ、豊前中津十二万石から一気に筑前五十二万石の大名となりました。
その長政、福岡を如何にまとめて統治して行くか……そこで設けられたのが『福岡城釈迦の間の異見会』でした。
『腹立たずの会』とも呼ばれます。
会合が行われた床の間には、お釈迦さまの姿を描いた掛け軸があったので『釈迦の間』と呼ばれたようです。
もっとも、この会の開催を勧めたのが、父・官兵衛だったとも言われます。
領内での問題に限らず、個々人の言動まで対象となった異見会では、さすがに進行役の長政自身が腹を立てることも多く、家臣になだめられることがあったとか。
難しいですよね、現代社会の企業でこのような会合を設けたら、相当のストレスを生むでしょうし、あらぬ恨みを買い、ハラスメントで訴えられることにもなりかねない気もします。
ですが、功の面が大きかったのでしょう、長政はこのイベントを大変気に入り、末永く続けるように遺書で勧めています。事実、明治四年の廃藩置県まで続いたと言われています。
きっと、現代では計り知れない主従の間での「思いやり」があったのでしょう。『名将言行録』には「心に思うことを相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らざる様にして、誠に親切なる議論なり」とあります。
さて、長政の跡を継いだのは長男の忠之でした。
ところが忠之はわがままな性格だったようで、家臣の諌言を受け入れずに、好みの人材を重用した為に『黒田騒動』を引き起こします。
この騒動は何とか乗り切り黒田家の改易取り潰しはありませんでしたが、長政の精神を続けることの困難さが伺い知れますね。
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)
>> 黒田長政の「腹立たずの会(異見会)」(Pixiv)
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