その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。
当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?
1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。
死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。
では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。
「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」
クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。
しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。
そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。
幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。
(後編へつづく)
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)
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