2014年10月26日日曜日

イナカイルミ 2014 @宇都井駅

イナカイルミ2014@宇都井駅(島根県邑南町)は、
11月29、30日の両日開催されるそうです。

イナカイルミ 2014

2014年10月22日水曜日

ベーブ・ルースの奇跡「約束のホームラン」

 ホームラン王と言えば、日本では決まって王貞治ですが、世界規模で見て第一に挙げられるのは、何と言ってもベーブ・ルースでしょう。

 ベーブ・ルースは、1895年のアメリカ・メリーランド州生まれ。両親はドイツ系移民で、生活は大変貧しく、あまりに腕白に育った為に彼が7歳の時に孤児院に預けられます。そこで教官から野球を教わりました。

 1914年にレッドソックスの投手として野球生活を始めます。孤児院育ちで子供じみた所があってか、チームの中では「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名されます。
 その後、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍。その年に54本のホームランを叩き出し、1927年のシリーズでは60本本塁打を達成。1935年の引退までに、通算714本のホームランを打ち、この記録は1974年まで破られませんでした。

 ヤンキースはルース在団中に相当な収益があり、ヤンキースタジアムは「ルースが建てた球場」の愛称を持ちます。

 ベーブ・ルースは、その生い立ちも関係してか、かなり子供好きであったようで、幼いファンの求めに気軽に応じてサインしまくっていましたし、試合後に集まる子供たちにも気楽に声をかけていました。ファンサービスたっぷりのルースは、正にアメリカンドリームを体得したアイドルだったのです。

 世界一のホームランバッターである国民的アイドルに声を掛けられれば、ファンは飛び上がるどこではないビッグな喜びを得ることでしょう。事実、そこから「ルースの奇跡」と呼ばれる信じられない物語が起きています。
 その一つが、マンガで紹介する「ジョニー・シルベスターの奇跡」です。

約束のホームラン


ジョニーの病気は重く、医者も見放す状態。
 大のベーブルースファンであったジョニーに、せめてもの喜びをと父親は、ルースに「手紙 を……よければサインボールを送ってもらえないでしょうか」とダメもとで依頼します。
 すると、翌日に大事な試合を控えていながらも、ルースはジョニーを直接見舞いに行きます。スーパースターが、一人の少年ファンの為に来てくれるというのですから父親もさぞ驚いたことでしょう。


ジョニーの奇跡

マンガ ベーブ・ルース「約束のホームラン」

ベーブルース 約束のホームラン

 この話はルースの自叙伝の中で本人が記していることなのですが、彼のホームランによって、医者も見放した病気を克服したというのですから、本人もさぞ驚きの出来事であったのでしょう。

 この「ジョニーの奇跡」の話には後日談がありまして……ルースがジョニーを見舞った翌年、ルースはあるホテルのロビーで「私はジョニー・シルベスターの叔父です」と名乗る男性と出会います。
 ルースは、完全にジョニーのことを忘れていて、適当に
「そのジョニーはどうしているかね?」と答えます。
 するとジョニーの叔父は、ルースの両手を握りながら
「奇跡が起きたんです。ルースさん、あなたがジョニーにしてくれたことを、私たち親族は一生忘れません」と言うではありませか。
 「それはよかった。ではジョニーによろしく」
とまあ、適当に受け答えして男性と分かれたルースは、周囲にいた記者たちに聞きます。
「なあ、聞いたか。彼はジョニーと言っていたが、ジョニーって誰だっけ?」
「ベーブ、もう去年のことを忘れたのかい?」と、記者はルースをからかった、という話が自叙伝に記されています。
 もうファンが多すぎて、誰がどうなっているのか、彼にはどうでもよかったのかもしれませんが、何とも微笑ましい話です。


 ジョニーはその後、潜水艦乗組員となり、第二次世界大戦では南太平洋で闘ったそうなので、おそらく対日本軍の戦闘だったのでしょう。それはともかく、晩年に病床にあったベーブ・ルースを、今度はジョニーが訪れ、彼の自叙伝には「ベッドに寝たままの僕を見舞ってくれて、ジョニーは激励してくれている」と記されています。

 この話は「約束のホームラン」とも称され、その後アメリカだけではなく、日本でもテレビなどで紹介されました。


 他にも、試合後の球場外にいた男の子に「やあ、こんにちは坊や」と声をかけると、彼は驚いてスッと立ち上がった、という話があります。実はこの男の子、病気のために二年間立てなかったそうで、ベーブ・ルースは一体どんな魔術師だよと思ってしまいますね。

 しかし、そんな魔術は無いにしても、相手を思いやる心、励ます言葉には、思いもよらない力を持っていることに違いありません。たかが言葉……されど言葉。心を込めた、優しい言葉を、わたしたちも掛けていきたいですね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)

2014年7月5日土曜日

JR三江線が、橋脚流出より見事復活、全線開通へ

平成25年8月24日の豪雨により因原の橋脚流出など甚大な被害を受け、江津ー浜原間が運休していたJR三江線
利用状況を考えれば、何億の資金を投じて復旧させるよりも、いよいよ廃止かと思いましたが、地元の熱烈なラブコールにより不死鳥のように蘇り、今年7月19日に全線運転再開の運びとなりました。

たまたま、豪雨直前の8月23日最終便に乗っていた私にとって、感慨深いものがあります。

三江線流域の過疎化は悲しいかな進む一方で、当然ながら利用客は減り続ける訳で、特に観光資源に恵まれている訳ではない三江線は、いよいよ正念場なのでしょう。
JR西日本も、大変な路線をかかえたものです。

三江線 石見みえ
JR三江線を応援してます!

一番は、広島からの客の呼び込みに力を入れるべきでしょうね。
コスプレ列車なるものが走りましたが、三次ー浜原間は臨時列車を走らせやすいようなので、広島ではなかなか実現できない企画列車を、ガンガン実施させて呼び込むべきでしょうね。
鉄道ファン向けのイベント「三江線ナイト」は、東京開催も結構ですが、まずは広島でドシドシ行わないといけないでしょうね。

2014年7月3日木曜日

Google検索結果からGoogle+顔写真の表示を消した模様(プロフィール画像の非表示)

最近、Googleの検索結果に、Google+プロフィールの顔が表示されないなと思ったら、何やらGoogleの方針転換があったみたいですね。
Web検索結果に著者名は出ますが、顔写真(似顔絵)の表示はされません。出すの止めたみたいです。
(ただ、Google+のサークル内ユーザーのアイコンは、検索結果に出してくれます。)


せっかく試行錯誤して、表示されるイラストみつけたんですけどね。

だからといって、どんなイラスト使ってもいい、という訳では、ないでしょうね。
Googleが顔と認識される写真をプロフィール画像に持ってこないと、著者名すら検索結果に出ないでしょうから。
顔出ないなら、どうでもいいやと思うところですが、今後、サイトコンテンツの書き手も重要な意味を持つGoogleの方針を考えると、安易な画像変更もできなさそうではあります。

2014年6月6日金曜日

鯖江の親鸞聖人旧跡「車の道場」の車は、粗末な車だった?

承元元年、越後へ遠流となった親鸞聖人が、その途中・越前の鯖江にて立ち寄られたという「車の道場」があります。
これは、現在の福井県鯖江市にある真宗誠照寺派の上野別堂のこと。
現在は、寝殿造りの本堂が、ポツンと建っています。

元々は、この地の豪族・波多野景之の屋敷でした。もともと信仰に厚かったと言われる景之が、親鸞聖人から教えを請うために招待しました。

鯖江

その時の様子を、寺伝には、「聖人輿をよせ、車を止めたまいし由緒をもって、世人呼んで車の道場という」とあります。
つまり、親鸞聖人は輿(車)に乗せられて訪れられた、だから『車の道場』と呼ばれるようになった、というのです。
伝承に沿って作られた伝絵には、輿に乗っておられる聖人が描かれています。

しかし、それは後に聖人の権威を落とさないように寺で配慮して描かれたものであろうと思います。この時、罪人としての扱いを受けられていたでしょうから、やはり農作業用の粗末な車に乗せられてきたと考えるべきでしょう。

車の道場


ともあれ、越前の道は相当険しく、親鸞聖人は御足を傷められ、やむなく車に乗せられたのでしょう。

景之は、屋敷に到着された親鸞聖人を、近くにあった井戸水に案内し、聖人はお疲れを癒されたと伝えられます。傷を冷やされたのでしょう。その井戸は、「承元の井」といわれ、今でも「車の道場」の前に存在します。


2014年2月26日水曜日

息子 黒田長政の異見会(福岡城 釈迦の間の「腹立たずの会」)【軍師・官兵衛】

 NHK大河ドラマ『軍師・官兵衛』で大きな話題となった黒田官兵衛と長政親子。
 二人は関ヶ原の合戦で徳川方に付き大きな武功を上げ、豊前中津十二万石から一気に筑前五十二万石の大名となりました。

 その長政、福岡を如何にまとめて統治して行くか……そこで設けられたのが『福岡城釈迦の間の異見会』でした。
『腹立たずの会』とも呼ばれます。
 会合が行われた床の間には、お釈迦さまの姿を描いた掛け軸があったので『釈迦の間』と呼ばれたようです。
 もっとも、この会の開催を勧めたのが、父・官兵衛だったとも言われます。

腹立たずの会


黒田長政

  領内での問題に限らず、個々人の言動まで対象となった異見会では、さすがに進行役の長政自身が腹を立てることも多く、家臣になだめられることがあったとか。
 難しいですよね、現代社会の企業でこのような会合を設けたら、相当のストレスを生むでしょうし、あらぬ恨みを買い、ハラスメントで訴えられることにもなりかねない気もします。

長政の異見会

 ですが、功の面が大きかったのでしょう、長政はこのイベントを大変気に入り、末永く続けるように遺書で勧めています。事実、明治四年の廃藩置県まで続いたと言われています。
 きっと、現代では計り知れない主従の間での「思いやり」があったのでしょう。『名将言行録』には「心に思うことを相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らざる様にして、誠に親切なる議論なり」とあります。

  さて、長政の跡を継いだのは長男の忠之でした。
 ところが忠之はわがままな性格だったようで、家臣の諌言を受け入れずに、好みの人材を重用した為に『黒田騒動』を引き起こします。
 この騒動は何とか乗り切り黒田家の改易取り潰しはありませんでしたが、長政の精神を続けることの困難さが伺い知れますね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)

 >> 黒田長政の「腹立たずの会(異見会)」(Pixiv)



2014年2月21日金曜日

【二宮金次郎(2)】桜町領復興と「根っこの藤助」

 小田原藩主・大久保忠真に見いだされて、下野国の桜町領の復興を命じられた二宮金次郎。当時の桜町はどれほど荒廃していたのでしょうか。

 そもそも、元禄の分知当時は戸数は433軒でしたが、二宮が訪れた時は145軒まで減っていたといいます。
 それほど年貢の取り立ては厳しく、逃げ出す者も多かったのです。

 なぜでしょうか。
 それは、分知時の石高は四千石余りでしたが、この時の桜町の生産能力は八百石まで落ちていたと言います。しかし藩の役人は四千石の計算のままで取り立てますから、厳しくなる筈です。
 ですから、そこに住む人の心も荒れ果て、貧しくなるのも当然でしょう。220町あった農地も、120町も荒れ地を出していました。
 小田原藩としては何とか立ち直らせようと、小田原より役人と莫大な資金を投入してきましたが、ことごとく失敗していました。

 二宮は調査により、もともと痩せている土地なので、桜町をどんなに復興しても二千石までにしか戻せない旨、藩主に伝えて了解をもらい、復興最終目標二千石という無理の無いプランを立てて行くことになります。 
 ところが、土地も荒れ果てていれば、人の心も荒れた桜町でしたから、二宮の改革はそう簡単には進みませんでした。
 二宮のやり方に反発し、讒言をし、妨害をする人も少なくなく、困難を極めます。

 ただ、さすが農民出身の二宮だけあり、百姓たちの心を少しずつ捉えて復興を進めていきました。
  その、様々なエピソードの中でも有名なものを描きました。




  特に、開墾場に常陸国笠間から出稼ぎに来ていた「藤助」という老人が、力が無いながらも陰日なたなく働くので、二宮は賃金として大金を彼に渡したという逸話があります。


根っこの藤助


桜町領

根っこの藤助


 役人の目を欺こうとする者には厳しい態度で臨み、自分の精一杯でコツコツ頑張る者には多くの褒美を与えました。
 人に見せるための仕事を嫌い、心をどれだけ打ち込んで仕事をしているか、重視したのですね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第3巻』より)


2014年1月29日水曜日

【二宮金次郎(1)】勤勉の姿と、若き苦難の日々。そして桜町領〜

 薪を背負って、本を読みながら歩く姿と言えば二宮金次郎ですね。
二宮尊徳

 小学校にある銅像と言えば金次郎と言われるほどでしたが、最近はその数を減らしてきているようです。
「寸暇を惜しんで勉強した」象徴なのですが、斜めから見ると「戦前思想の押しつけだ」だの「子供に労働させている」だの「歩きながらの読書は危ない」といった意見もあるようで。

 確かに、現代的に言えば、携帯やスマホを見ながら歩いている姿になるのでしょう。スマホ見ながら歩く「ながら」は禁止する傾向にありますし、実際、スマホを見ながら歩いていた青年が踏切に気がつかず電車に敷かれて死亡した例もあります。
 ……そう、本やスマホ見ながら歩いては危険ですので、やめましょう。 


 それはさておき、二宮金次郎こと二宮尊徳の物語なのですが、子供時代のことを相当短縮してしまいましたので、ここで補記したいと思います。

二宮金次郎 マンガ


 二宮尊徳は、天明7年(1787)相模国、今の神奈川県小田原市栢山に百姓の子として生まれました。
 父親の利右衛門はかなりいい人で、知人からの懇願に応じて素直にお金を貸すなどしていましたが、悪い言い方をすればかなりのお人好し。それが仇となって、次第に二宮家は貧しくなります。
 更に金次郎5歳の時、酒匂川の洪水により二宮家の田畑は流失し、貧困のどん底に陥ります。

 病気がちの父親を助ける為に、金次郎は堤防工事に働きに出ます。しかし10歳そこそこの子供が工事の役に立つ訳もなく、金次郎はかわりに草鞋を作って村人に提供したといいます。
 また、働いて得た二百文の金で、ある老人から売れ残りの松の苗を買い取り、それを堤防に植えました。
 その松は今でも酒匂川の並木として残っているのですが、堤防に張った松の根っこでより丈夫になったそうです。

  必死に働く金次郎ですが、14歳の時に父・利右衛門が亡くなり、その2年後には母も他界。貧しさの原因の一つは、父親の無学にあると悟ったことが、後に彼を勤勉の象徴にのし挙げる原動力になったとも言われます。  

 父母を亡くした金次郎は伯父・万兵衛に、弟二人は母の実家に預けられます。
 金次郎は伯父の家で必死に働く傍ら、寸暇を惜しんで勉学に励みました。
 そんな姿を伯父・万兵衛はよく思わなかったようで「灯火の油がもったいない。農業に勉学などいらぬ」と叱りつけます。
 それでもめげない金次郎は、自分で菜種を植え育て油を得て、伯父の部屋に光が漏れないようにと行灯に服をかぶせ、隠れるように勉強を続けたと言われます。

 更に、捨て苗を拾い集めて川土手の荒れ地に田を設けて育て、1俵余りの米を収穫しました。これを「積小為大の発見」と言われ、金次郎は農業の面白さを知らされるのです。

 益々必死に働く金次郎は、荒れ果てた二宮家の田畑を少しずつ買い戻し、20歳にして生家の再興を果たしました。

 その後も少しずつ広げた田畑は小作に出して収入を得て、地主の地位を得ます。
 金次郎は相当しっかりした体格であったと伝えられ、だからこそこれだけの働きができたとも言えるのでしょう。
 しかし、すぐに年貢がかからない新田開墾に力を入れ、土地を得れば小作に出し、自分は武家奉公に出て収入を得、お金が貯まれば貸金にするという、やりくり上手でもありました。
 勤勉によって得た知恵からくるものでありましょう。  

 地主経営の傍ら、小田原にて武家奉公人として働き、奉公先の小田原藩家老・服部十郎兵衛が金次郎の才能に目を付けます。
 巨額の借金に苦しんでいた服部は、家計立て直しを金次郎に依頼。金次郎は倹約策を進めますが、ただ節約するだけではめいるので、奉公人たちがやる気を出して働けるように創意工夫します。
 例えば、物品購入の為に奉公人を使いに出す際、金次郎が定めた額の金を渡しますが、「更に安くてよい品物を購入した場合、それはお前の成果だから、釣りはそのままもらっていい」ことにして、喜ばせたと言われます。  
 そして服部家の借金は返済され、5年間で見事家計立て直しに成功します。  
 服部は金次郎に、その成果報酬の金百両を与えようとしますが金次郎自身は受け取らず、自分のやり方についてきてくれた他の奉公人に配ってしまったといいます。
 何と気持ちのいい男なのでしょう。  

二宮尊徳 マンガ


 この服部家のことが藩主・大久保忠真の耳に入ります。藩政の改革で、身分に関係なく人材を求めていた忠真は金次郎に声を掛けます。
 しかし、身分の違いを気にする家臣たちの反発を買ったため、仕方なく忠真は、小田原藩の分家である宇津家の桜町領の復興を金次郎に命じました。
 桜町領は、小田原藩の飛地で、下野国・現在の栃木県真岡市にありました。小田原から遠く離れた土地のことなら、家臣も文句を言わないだろうと考えたのです。確かに、桜町領で成功を治めてから藩政に登用すれば、家臣も納得することでしょう。

二宮尊徳 漫画


  既に結婚して幼い子供もいた金次郎は、小田原の家を売り払い、桜町領に移住するという相当の決意を持って歩みだします。
 前述の通り、並々ならぬ努力によって再興させた生家を手放すのは、つらい事であったに違いありません。  
(つづく)

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第3巻』より)