Comic Studio 4.0EXが「カスタムツール、鉛筆がどうのこうの」と出てきて、突然起動しなくなったので、初期化しました。
>> ComicStudioを初期化起動したいのですが?
Shiftキーを押しながら起動すれば、初期化されて立ち上がるみたいです。
無事解決しました。
Preferencesのフォルダから何か消そうしても、何もないんですね。
2015年2月27日金曜日
2015年2月26日木曜日
鳥屋野の逆さ竹 〜越後の七不思議(1)〜
上越から北陸自動車道を北上、その終点の新潟西インターとJR新潟駅の中間に位置する湖が、鳥屋野潟です。
この湖のほとりに、枝葉が下へ向かって逆さにのびる特殊な竹が生えています。これが、親鸞聖人の越後七不思議の一つ、「逆さ竹」です。
逆さ竹の伝承によりますと、
「ある日、親鸞聖人が、手にしておられた竹の杖を大地に差され、『私の伝えている教えが真実ならば、この枯れた竹から根が生じ大きく茂るであろう』と仰せになった。すると、まもなく、その竹が大きく育ち、大竹林を形成した。
しかも、不思議なことに、竹の枝が枝垂れ柳のように逆さに生えている。此れは、聖人が竹杖を大地に差される時、根元の方を上にされたからである」
とのことです。
実際、国の天然記念物に指定されているのですが、最近はどうもなかなか逆さに枝を伸ばす竹が見つからないとも聞いています。
おそらく突然変異なのでしょう。まさか逆さに指した竹が本当に根付くとは思えませんし、浄土真宗はそのような奇跡を是とする教えでもありませんが、その伝承に込められた心には、実は深いものがあるのです。
やはり、親鸞聖人にまつわる出来事として語り継がれるには、それ相当の意味がありました。
「浄土の法義を示したまうといえども、疑謗の輩つねに多く、信従の人ははなはだ稀なりければ、聖人深くこれを歎じて、『この里に親を亡くした子はなきか、御法の風になびく人なし』と詠じたまい、すなわち持するところの竹杖を地にさし、願じていわく、『わが弘むるところの法、もし仏意にかなわば、この枯竹、必ずまさに根芽を生ずべし』と。すでにしてその枯竹、果然として根を生じ芽を発す」(竹林御旧蹟鳥屋野院略縁起)
なるほど、逆さに延びる枝は、親鸞聖人の説かれる教えになかなか聞こうとしない民の姿をたとえたのでしょう。
冷たい扱いを受けられながらも、それでも「この里に親を看取った人がいるだろう、そのことから世の無常を観じたことだろう、どうかそれを縁に、浄土真宗の教えを聞いてもらいたい」
その布教のご苦労を、後世に伝える為に、逆さ竹を縁としたのだろうと、私は思います。
この湖のほとりに、枝葉が下へ向かって逆さにのびる特殊な竹が生えています。これが、親鸞聖人の越後七不思議の一つ、「逆さ竹」です。
逆さ竹の伝承によりますと、
「ある日、親鸞聖人が、手にしておられた竹の杖を大地に差され、『私の伝えている教えが真実ならば、この枯れた竹から根が生じ大きく茂るであろう』と仰せになった。すると、まもなく、その竹が大きく育ち、大竹林を形成した。
しかも、不思議なことに、竹の枝が枝垂れ柳のように逆さに生えている。此れは、聖人が竹杖を大地に差される時、根元の方を上にされたからである」
とのことです。
実際、国の天然記念物に指定されているのですが、最近はどうもなかなか逆さに枝を伸ばす竹が見つからないとも聞いています。
おそらく突然変異なのでしょう。まさか逆さに指した竹が本当に根付くとは思えませんし、浄土真宗はそのような奇跡を是とする教えでもありませんが、その伝承に込められた心には、実は深いものがあるのです。
やはり、親鸞聖人にまつわる出来事として語り継がれるには、それ相当の意味がありました。
「浄土の法義を示したまうといえども、疑謗の輩つねに多く、信従の人ははなはだ稀なりければ、聖人深くこれを歎じて、『この里に親を亡くした子はなきか、御法の風になびく人なし』と詠じたまい、すなわち持するところの竹杖を地にさし、願じていわく、『わが弘むるところの法、もし仏意にかなわば、この枯竹、必ずまさに根芽を生ずべし』と。すでにしてその枯竹、果然として根を生じ芽を発す」(竹林御旧蹟鳥屋野院略縁起)
なるほど、逆さに延びる枝は、親鸞聖人の説かれる教えになかなか聞こうとしない民の姿をたとえたのでしょう。
冷たい扱いを受けられながらも、それでも「この里に親を看取った人がいるだろう、そのことから世の無常を観じたことだろう、どうかそれを縁に、浄土真宗の教えを聞いてもらいたい」
その布教のご苦労を、後世に伝える為に、逆さ竹を縁としたのだろうと、私は思います。
2015年2月18日水曜日
下痢を減らすには「よく噛む」ことから
立ち寄った薬局の店内に、下痢抑え薬の広告が流れていました。
錠剤飲んで、すぐに下痢っておさまるものなんですかね、にわかに信じがたいのですが……。
幼い頃から、腹が強い方ではありませんでした。
大人になって、下痢をしやすい体質は更に濃くなったと言いましょうか……特に朝が弱い。
過敏性、と言われるのでしょうか、便意が急激にやってくるので、「これは電車通勤なんて僕には無理だなあ」とよく思うのです。
そんな状態を、知り合いの内科医師に相談したところ、
「まずは、よく噛んで食べることです」
と、アドバイスを受けました。
確かに、食事はいつも事務的で、パパッと済ませるので、よく噛んで食べてないよなあ……。
反省して、それから意識的によく噛んで食べるようにしました。
すると、確かに下痢を起こす頻度が少なくなりました。
ふむ……忙しい毎日の中で怠りがちなんですけど、咀嚼の大切さ……身にしみました。
錠剤飲んで、すぐに下痢っておさまるものなんですかね、にわかに信じがたいのですが……。
幼い頃から、腹が強い方ではありませんでした。
大人になって、下痢をしやすい体質は更に濃くなったと言いましょうか……特に朝が弱い。
過敏性、と言われるのでしょうか、便意が急激にやってくるので、「これは電車通勤なんて僕には無理だなあ」とよく思うのです。
そんな状態を、知り合いの内科医師に相談したところ、
「まずは、よく噛んで食べることです」
と、アドバイスを受けました。
確かに、食事はいつも事務的で、パパッと済ませるので、よく噛んで食べてないよなあ……。
反省して、それから意識的によく噛んで食べるようにしました。
すると、確かに下痢を起こす頻度が少なくなりました。
ふむ……忙しい毎日の中で怠りがちなんですけど、咀嚼の大切さ……身にしみました。
2015年2月11日水曜日
2015年1月15日木曜日
日本サッカーの父 デットマール・クラマー(前編)
昭和三十年代前半、サッカー日本代表チームはアジアで最弱でした。
その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。
当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?
1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。
死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。
では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。
日本チームはアレマニア・アーヘンチームと親善試合を行います。その日本の試合ぶりを初めてみたクラマーは「ショップ、ショップ、アーヘン」と叫んだと言います。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。
「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」
クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。
しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。
そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。
幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。
(後編へつづく)
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)
その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。
当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?
1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。
死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。
では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。
「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」
クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。
しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。
そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。
幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。
(後編へつづく)
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)
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