立ち寄った薬局の店内に、下痢抑え薬の広告が流れていました。
錠剤飲んで、すぐに下痢っておさまるものなんですかね、にわかに信じがたいのですが……。
幼い頃から、腹が強い方ではありませんでした。
大人になって、下痢をしやすい体質は更に濃くなったと言いましょうか……特に朝が弱い。
過敏性、と言われるのでしょうか、便意が急激にやってくるので、「これは電車通勤なんて僕には無理だなあ」とよく思うのです。
そんな状態を、知り合いの内科医師に相談したところ、
「まずは、よく噛んで食べることです」
と、アドバイスを受けました。
確かに、食事はいつも事務的で、パパッと済ませるので、よく噛んで食べてないよなあ……。
反省して、それから意識的によく噛んで食べるようにしました。
すると、確かに下痢を起こす頻度が少なくなりました。
ふむ……忙しい毎日の中で怠りがちなんですけど、咀嚼の大切さ……身にしみました。
2015年2月18日水曜日
2015年2月11日水曜日
2015年1月15日木曜日
日本サッカーの父 デットマール・クラマー(前編)
昭和三十年代前半、サッカー日本代表チームはアジアで最弱でした。
その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。
当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?
1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。
死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。
では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。
日本チームはアレマニア・アーヘンチームと親善試合を行います。その日本の試合ぶりを初めてみたクラマーは「ショップ、ショップ、アーヘン」と叫んだと言います。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。
「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」
クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。
しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。
そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。
幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。
(後編へつづく)
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)
その立て直しを計るため、初めての外国人コーチとして西ドイツのデットマール・クラマーが選ばれました。
当時の日本は、そんなに酷かったのでしょうか?
1958年のアジア大会は地元日本で開催されながらも、当時アジア最弱と言われたフィリピンにすら負け、1次リーグは全敗の成績。
前年のローマオリンピック予選でも敗退。4年後には東京オリンピック開催が決定しておりながら、ローマでは次回開催国のサッカーチームが出場できない燦々たる状況でした。
死に物狂いで立ち直そうとした結論の一つに、外国からプロのコーチを招く、というものでした。現在では普通の考えですが、当時はそんな発想はありませんでした。
日本代表のチームを、日本人ではない、外国人にゆだねることは、日本人指導陣にとっては屈辱的なことでした。ですから、外国人コーチを招くことにも強い反対意見もありました。
では、どこの国から? イングランドやブラジル・ソビエト連邦など強豪国はありましたが、色々と縁のあった西ドイツを選択します。
日本より西ドイツサッカー協会に協力を依頼。西ドイツは日本に全面的に協力することを決め、コーチとしてデットマール・クラマーを推してきました。
1960年8月、日本代表は欧州へ遠征しクラマーと会い、10月にはクラマー自身の来日が決まりました。
つまり、日本チームのパスは、ショップ、ショップと二度までつながっても、必ず三度目ではアーヘンチームに渡ってしまっていました。もちろんこの試合は日本完敗。
日本選手は正確なパスができなかったのです。
クラマーは見抜きます。「そんな日本チームにも速いテンポで進める長所があるが、短所はやはりテクニック不足」ボールコントロールのテクニックを磨くことが最重要課題として取り組むべきと考えました。
「ボールコントロールは次の部屋へ入る鍵だ」
「サッカーという競技では、この鍵さえあれば、世界が広がっていく」
クラマーは徹底して基本技術の練習をさせました。それもまるで手取り足取り初心者に教えるように。
選手達は、クラマーの「Genau!(正確に)」という声ばかり聞いたそうです。正確なパスを行わないと、酷く怒鳴られもした。そして正確なパスの何たるかを、クラマー自身が見本を披露しました。
なんでも、隣で合宿していたドイツ少年チームの選手たちは楽々リフティングをこなしているのに、日本選手はうまくできなかったほどだとか。「コーチや子供よりも下手なのか」と日本選手は愕然とします。
そんな状況だからこそ、日本選手は夢中になって練習を重ねます。
しかし、日本チームの監督は面白くありません。
「そんな基本練習はいつもやっている。こんなの意味がない」と突っぱねます。困ったのは間に入る通訳者だったようです。
そもそも当時の日本の考え方として、キックを正確にする前に、根性で頑張り抜くのが勝利への近道という雰囲気がありました。いわば「野球文化」だったのです。そんな日本の伝統を崩す外国人コーチは、確かに日本指導陣にしてみれば煙たい存在に違いありません。
そもそも、デットマール・クラマーとはどんな人だったのでしょうか。
幼くしてサッカーの才能を認められ、16歳ではドイツトップチームへ昇格。しかし、第二次世界大戦でドイツ軍パラシュート部隊に配属され、レニングラードで捕虜となりました。
ドイツ敗戦後に帰国しサッカーを再開したものの足の故障により、指導者に転身。彼の書いた指導書はベストセラーにもなりました。
クラマーの父は庭師であり建築家で、日本の庭技術を学んでいました。クラマー本人もその影響を受けたようで、日本の文化にも少なからず触れていたので、日本コーチの話も特に障りはなかったようです。
(後編へつづく)
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第4巻』より)
|
|
2014年10月26日日曜日
2014年10月22日水曜日
ベーブ・ルースの奇跡「約束のホームラン」
ホームラン王と言えば、日本では決まって王貞治ですが、世界規模で見て第一に挙げられるのは、何と言ってもベーブ・ルースでしょう。
ベーブ・ルースは、1895年のアメリカ・メリーランド州生まれ。両親はドイツ系移民で、生活は大変貧しく、あまりに腕白に育った為に彼が7歳の時に孤児院に預けられます。そこで教官から野球を教わりました。
1914年にレッドソックスの投手として野球生活を始めます。孤児院育ちで子供じみた所があってか、チームの中では「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名されます。
その後、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍。その年に54本のホームランを叩き出し、1927年のシリーズでは60本本塁打を達成。1935年の引退までに、通算714本のホームランを打ち、この記録は1974年まで破られませんでした。
ヤンキースはルース在団中に相当な収益があり、ヤンキースタジアムは「ルースが建てた球場」の愛称を持ちます。
ベーブ・ルースは、その生い立ちも関係してか、かなり子供好きであったようで、幼いファンの求めに気軽に応じてサインしまくっていましたし、試合後に集まる子供たちにも気楽に声をかけていました。ファンサービスたっぷりのルースは、正にアメリカンドリームを体得したアイドルだったのです。
世界一のホームランバッターである国民的アイドルに声を掛けられれば、ファンは飛び上がるどこではないビッグな喜びを得ることでしょう。事実、そこから「ルースの奇跡」と呼ばれる信じられない物語が起きています。
その一つが、マンガで紹介する「ジョニー・シルベスターの奇跡」です。
ジョニーの病気は重く、医者も見放す状態。
大のベーブルースファンであったジョニーに、せめてもの喜びをと父親は、ルースに「手紙 を……よければサインボールを送ってもらえないでしょうか」とダメもとで依頼します。
すると、翌日に大事な試合を控えていながらも、ルースはジョニーを直接見舞いに行きます。スーパースターが、一人の少年ファンの為に来てくれるというのですから父親もさぞ驚いたことでしょう。
この話はルースの自叙伝の中で本人が記していることなのですが、彼のホームランによって、医者も見放した病気を克服したというのですから、本人もさぞ驚きの出来事であったのでしょう。
この「ジョニーの奇跡」の話には後日談がありまして……ルースがジョニーを見舞った翌年、ルースはあるホテルのロビーで「私はジョニー・シルベスターの叔父です」と名乗る男性と出会います。
ルースは、完全にジョニーのことを忘れていて、適当に
「そのジョニーはどうしているかね?」と答えます。
するとジョニーの叔父は、ルースの両手を握りながら
「奇跡が起きたんです。ルースさん、あなたがジョニーにしてくれたことを、私たち親族は一生忘れません」と言うではありませか。
「それはよかった。ではジョニーによろしく」
とまあ、適当に受け答えして男性と分かれたルースは、周囲にいた記者たちに聞きます。
「なあ、聞いたか。彼はジョニーと言っていたが、ジョニーって誰だっけ?」
「ベーブ、もう去年のことを忘れたのかい?」と、記者はルースをからかった、という話が自叙伝に記されています。
もうファンが多すぎて、誰がどうなっているのか、彼にはどうでもよかったのかもしれませんが、何とも微笑ましい話です。
ジョニーはその後、潜水艦乗組員となり、第二次世界大戦では南太平洋で闘ったそうなので、おそらく対日本軍の戦闘だったのでしょう。それはともかく、晩年に病床にあったベーブ・ルースを、今度はジョニーが訪れ、彼の自叙伝には「ベッドに寝たままの僕を見舞ってくれて、ジョニーは激励してくれている」と記されています。
この話は「約束のホームラン」とも称され、その後アメリカだけではなく、日本でもテレビなどで紹介されました。
他にも、試合後の球場外にいた男の子に「やあ、こんにちは坊や」と声をかけると、彼は驚いてスッと立ち上がった、という話があります。実はこの男の子、病気のために二年間立てなかったそうで、ベーブ・ルースは一体どんな魔術師だよと思ってしまいますね。
しかし、そんな魔術は無いにしても、相手を思いやる心、励ます言葉には、思いもよらない力を持っていることに違いありません。たかが言葉……されど言葉。心を込めた、優しい言葉を、わたしたちも掛けていきたいですね。
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)
ベーブ・ルースは、1895年のアメリカ・メリーランド州生まれ。両親はドイツ系移民で、生活は大変貧しく、あまりに腕白に育った為に彼が7歳の時に孤児院に預けられます。そこで教官から野球を教わりました。
1914年にレッドソックスの投手として野球生活を始めます。孤児院育ちで子供じみた所があってか、チームの中では「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名されます。
その後、1920年にニューヨーク・ヤンキースに移籍。その年に54本のホームランを叩き出し、1927年のシリーズでは60本本塁打を達成。1935年の引退までに、通算714本のホームランを打ち、この記録は1974年まで破られませんでした。
ヤンキースはルース在団中に相当な収益があり、ヤンキースタジアムは「ルースが建てた球場」の愛称を持ちます。
ベーブ・ルースは、その生い立ちも関係してか、かなり子供好きであったようで、幼いファンの求めに気軽に応じてサインしまくっていましたし、試合後に集まる子供たちにも気楽に声をかけていました。ファンサービスたっぷりのルースは、正にアメリカンドリームを体得したアイドルだったのです。
世界一のホームランバッターである国民的アイドルに声を掛けられれば、ファンは飛び上がるどこではないビッグな喜びを得ることでしょう。事実、そこから「ルースの奇跡」と呼ばれる信じられない物語が起きています。
その一つが、マンガで紹介する「ジョニー・シルベスターの奇跡」です。
大のベーブルースファンであったジョニーに、せめてもの喜びをと父親は、ルースに「手紙 を……よければサインボールを送ってもらえないでしょうか」とダメもとで依頼します。
すると、翌日に大事な試合を控えていながらも、ルースはジョニーを直接見舞いに行きます。スーパースターが、一人の少年ファンの為に来てくれるというのですから父親もさぞ驚いたことでしょう。
この話はルースの自叙伝の中で本人が記していることなのですが、彼のホームランによって、医者も見放した病気を克服したというのですから、本人もさぞ驚きの出来事であったのでしょう。
この「ジョニーの奇跡」の話には後日談がありまして……ルースがジョニーを見舞った翌年、ルースはあるホテルのロビーで「私はジョニー・シルベスターの叔父です」と名乗る男性と出会います。
ルースは、完全にジョニーのことを忘れていて、適当に
「そのジョニーはどうしているかね?」と答えます。
するとジョニーの叔父は、ルースの両手を握りながら
「奇跡が起きたんです。ルースさん、あなたがジョニーにしてくれたことを、私たち親族は一生忘れません」と言うではありませか。
「それはよかった。ではジョニーによろしく」
とまあ、適当に受け答えして男性と分かれたルースは、周囲にいた記者たちに聞きます。
「なあ、聞いたか。彼はジョニーと言っていたが、ジョニーって誰だっけ?」
「ベーブ、もう去年のことを忘れたのかい?」と、記者はルースをからかった、という話が自叙伝に記されています。
もうファンが多すぎて、誰がどうなっているのか、彼にはどうでもよかったのかもしれませんが、何とも微笑ましい話です。
ジョニーはその後、潜水艦乗組員となり、第二次世界大戦では南太平洋で闘ったそうなので、おそらく対日本軍の戦闘だったのでしょう。それはともかく、晩年に病床にあったベーブ・ルースを、今度はジョニーが訪れ、彼の自叙伝には「ベッドに寝たままの僕を見舞ってくれて、ジョニーは激励してくれている」と記されています。
この話は「約束のホームラン」とも称され、その後アメリカだけではなく、日本でもテレビなどで紹介されました。
他にも、試合後の球場外にいた男の子に「やあ、こんにちは坊や」と声をかけると、彼は驚いてスッと立ち上がった、という話があります。実はこの男の子、病気のために二年間立てなかったそうで、ベーブ・ルースは一体どんな魔術師だよと思ってしまいますね。
しかし、そんな魔術は無いにしても、相手を思いやる心、励ます言葉には、思いもよらない力を持っていることに違いありません。たかが言葉……されど言葉。心を込めた、優しい言葉を、わたしたちも掛けていきたいですね。
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)
|
|
2014年7月5日土曜日
JR三江線が、橋脚流出より見事復活、全線開通へ
平成25年8月24日の豪雨により因原の橋脚流出など甚大な被害を受け、江津ー浜原間が運休していたJR三江線。
利用状況を考えれば、何億の資金を投じて復旧させるよりも、いよいよ廃止かと思いましたが、地元の熱烈なラブコールにより不死鳥のように蘇り、今年7月19日に全線運転再開の運びとなりました。
たまたま、豪雨直前の8月23日最終便に乗っていた私にとって、感慨深いものがあります。
三江線流域の過疎化は悲しいかな進む一方で、当然ながら利用客は減り続ける訳で、特に観光資源に恵まれている訳ではない三江線は、いよいよ正念場なのでしょう。
JR西日本も、大変な路線をかかえたものです。
一番は、広島からの客の呼び込みに力を入れるべきでしょうね。
コスプレ列車なるものが走りましたが、三次ー浜原間は臨時列車を走らせやすいようなので、広島ではなかなか実現できない企画列車を、ガンガン実施させて呼び込むべきでしょうね。
鉄道ファン向けのイベント「三江線ナイト」は、東京開催も結構ですが、まずは広島でドシドシ行わないといけないでしょうね。
利用状況を考えれば、何億の資金を投じて復旧させるよりも、いよいよ廃止かと思いましたが、地元の熱烈なラブコールにより不死鳥のように蘇り、今年7月19日に全線運転再開の運びとなりました。
たまたま、豪雨直前の8月23日最終便に乗っていた私にとって、感慨深いものがあります。
三江線流域の過疎化は悲しいかな進む一方で、当然ながら利用客は減り続ける訳で、特に観光資源に恵まれている訳ではない三江線は、いよいよ正念場なのでしょう。
JR西日本も、大変な路線をかかえたものです。
![]() |
| JR三江線を応援してます! |
一番は、広島からの客の呼び込みに力を入れるべきでしょうね。
コスプレ列車なるものが走りましたが、三次ー浜原間は臨時列車を走らせやすいようなので、広島ではなかなか実現できない企画列車を、ガンガン実施させて呼び込むべきでしょうね。
鉄道ファン向けのイベント「三江線ナイト」は、東京開催も結構ですが、まずは広島でドシドシ行わないといけないでしょうね。
2014年7月3日木曜日
Google検索結果からGoogle+顔写真の表示を消した模様(プロフィール画像の非表示)
最近、Googleの検索結果に、Google+プロフィールの顔が表示されないなと思ったら、何やらGoogleの方針転換があったみたいですね。
Web検索結果に著者名は出ますが、顔写真(似顔絵)の表示はされません。出すの止めたみたいです。
(ただ、Google+のサークル内ユーザーのアイコンは、検索結果に出してくれます。)
せっかく試行錯誤して、表示されるイラストみつけたんですけどね。
だからといって、どんなイラスト使ってもいい、という訳では、ないでしょうね。
Googleが顔と認識される写真をプロフィール画像に持ってこないと、著者名すら検索結果に出ないでしょうから。
顔出ないなら、どうでもいいやと思うところですが、今後、サイトコンテンツの書き手も重要な意味を持つGoogleの方針を考えると、安易な画像変更もできなさそうではあります。
Web検索結果に著者名は出ますが、顔写真(似顔絵)の表示はされません。出すの止めたみたいです。
(ただ、Google+のサークル内ユーザーのアイコンは、検索結果に出してくれます。)
せっかく試行錯誤して、表示されるイラストみつけたんですけどね。
だからといって、どんなイラスト使ってもいい、という訳では、ないでしょうね。
Googleが顔と認識される写真をプロフィール画像に持ってこないと、著者名すら検索結果に出ないでしょうから。
顔出ないなら、どうでもいいやと思うところですが、今後、サイトコンテンツの書き手も重要な意味を持つGoogleの方針を考えると、安易な画像変更もできなさそうではあります。
登録:
投稿 (Atom)
















