2013年6月15日土曜日

高島屋の歴史 〜混乱の中で信頼を勝ち取る〜


 高島屋にとって、大きな事件が元治元年(1864)に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」でした。

 戦により火災が発生し、京都市中の家屋約二万八千余戸を焼くという大火になります。これはなす術もなくどんどん家が焼けてしまったので「どんどん焼け」と呼ばれ伝えられた大火災なのですが、高島屋も消失の憂き目に会いました。

高島屋と禁門の変


 ただ、飯田新七と婿養子の新兵衛はいち早く商品を近くの寺に避難させます。
 また、店舗は失いましたが、土蔵は焼け残ります。そこには土蔵の中央に水をたたえた風呂桶と各所に樽を置くという機転がありました。また、火災後すぐに土蔵を開けると、中の熱い空気と外の空気が触れて火が発生するので、二日間冷えるのを待ってから開けたので、中の商品は守られたという話もあります。


 ともあれ、火災の一週間後には露店を出して商いを始め、着の身着のまま焼けだされた人々に、通常通りの値段で商品を売ったので、大評判となりあっという間に売り切れたと言われます。

 このような混乱の時は稼ぎ時で、粗悪品を高く売りつける商人が出るのは当然のことでしたが、高島屋は良い品を値上げすることなく売ったので、結果、顧客の絶大なる信頼を勝ち取ることになりました。


 その後、幕末から明治維新の混乱の中、商売道徳は地に落ち、早売り早儲けに走り、品質の改良を顧みる者もなく粗悪なものが出回るようになっても、高島屋は商品研究を怠らず、良品廉価の商いを貫きました。

 そして二代目の言葉です。
「世間はいざしらず、我店で取り扱う商品は、堅牢確実なものを売らんと決心し、染に織に十分の吟味を加え、もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、併せて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」

 飯田新七が高島屋を起こした初心である、自利利他の精神を守り通したことが、大きな発展に繋がったと言えましょう。

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