2013年6月13日木曜日

高島屋発展の歴史 〜初代・飯田新七と自利利他の精神〜

「高島屋」と言えば、国内最大級のデパートとして有名であり、バラのイメージで高貴な雰囲気漂う百貨店ですが、最初は江戸時代に貧しい夫婦が始めた古着屋でした。

 高島屋は、天保2年(1831)1月10日、京都の烏丸通松原上ル西側に誕生しました。
 初代の飯田新七は享和3年(1803)の越前敦賀生まれ。10歳で京都に出て、呉服商に奉公。大津までの3里の道を、重い荷物を背負って朝早く出かけ夜遅く帰ったので、京都にいながら京都を知らなかったと言われます。

 その後25歳の時、米殻商・高島屋の飯田儀兵衛が婿養子に迎え、分家という形で古着の行商を始めます。
 しかし、小さな店を出したものの、資金は出店で精一杯で、並べる商品を仕入れるお金にも困る状態。

高島屋の歴史

 しかし、そこを乗り越えさせたのが妻の力。困る夫の姿を見て、嫁入り用の着物を差し出して「着物は四季それぞれに一着あれば間に合うし、お金ができればまたいつか買える」と商品にしたという逸話があります。

 他、隣の同業者よりも朝早く起きて、一家そろって掃除に励んだので「高島屋はよく気張る」と評判を呼んだり、顧客のニーズを調べる為に街頭で聞きに回るという、現代で言うアンケートを行って商売形態を検討したり、地道ながらも確実に基盤を固めて行きます。


 彼は妻と話し合って、創業の精神を四カ条にまとめました。
一、確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし
二、正札掛値なし
三、商品の良否は、明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず
四、顧客の待遇を平等にし、苟も貧富貴賎に依りて差等を附すべからず
 特に第一の「自他の利益を図るべし」と、自分たちもお客さんも、双方が得をするような商売をしていこうと誓ったのです。

 同じ頃の同業者としては、慶長16年に尾張で創業した呉服屋(現:松坂屋)が江戸に進出、1673年創業の越後屋(現:三越)、1717年創業の京都・大文字屋(現:大丸)など豪商も多く、高島屋はかなり後発と言えるでしょう。 


 そもそも、当時の庶民の生活は貧しく、幕府により贅沢は禁じられて新しい呉服を着る事ができず、もっぱら衣服は木綿や古着でした。
 大名や富豪相手の呉服店チェーンよりも、高島屋は小規模ながら庶民を相手にじわじわと経営基盤を固めて行くことになります。

2013年6月12日水曜日

縄文村の自然食バイキングは絶景で楽しめる

 グルメの町として突っ走る邑南町で、先陣を切っているのは「味蔵」ではなくて縄文村じゃないかと、私個人的には思っているのですけどね。

 縄文村は、浜田道・瑞穂インターから原山雲海ロードを走って、旧石見町に入るとすぐに遭遇する建物。
 地元産の有機栽培野菜などを使った、自然食ランチバイキングが楽しめるお店です。
そもそも「縄文村」という名前の由来は、ランチのご飯に「古代米」を使うからとか何とか聞いたことがありますが、邑南町がA級グルメを名乗る前から営業し、常連さんも多いです。
 休日の休みともなると、広島ナンバーなど根強いファンが詰めかける人気店。

 なにせ、ロケーションがすごい。店内の庭から於保地(おほち)盆地が見渡せる絶景の店。

縄文村中庭

 店の表側からは分かりませんが、なにせこの素晴らしい景色を見ながら食事できるのですから、そりゃ固定客も生まれますよね。

於保地盆地

 ランチはバイキングになっているので、取り放題で満腹になれます。

縄文村のランチバイキング


自然食バイキング

 店長さんとは、地元郷土史関係で知り合いでして、よく立ち寄るのですが、「そこにお茶があるから自由に飲め」と言われてみて見れば、茶が入った釜があるんですよね。


 炭火で湧かしているみたいです。
 脇にある竹細工の柄杓ですくえと……とことん自然ですな。

 詳しいことは、縄文村のサイトにあります。ランチバイキングは午前11時から無くなるまで……って、品は人数に合わせてガンガン出てきますけどね。
 また、店から盆地を眺められるライブカメラもありますので……って、なんかプラグインの不具合で私はうまく見れないのですが、なにせ色んな意味で大好きなお店です。


2013年6月10日月曜日

味蔵は予約一杯なので「プチ味蔵」へ行った

 B級ではなくてA級グルメで勝負をかけている邑南町

 つくづくスゴイと思う。各生産物によほど自身が無いと、A級なんて名乗れないですよ。
 仕掛人がやり手なんでしょうね。
 こんな山奥の人口少ない町で、こんな戦略立てて大丈夫かねと思いますね。実家の母が「人口少ないのに飲食店がこれだけあって、つぶれないのが不思議」と言っていましたが、広島方面からの客で味蔵は結構な人気なのだとか。浜田道様々ですな。

 個人的には、素朴ながら腹一杯食べられる「縄文村」が好きなんですが、たまたま味蔵のランチ券を1枚もらったので、行ってみました。

 ……が、昼は予約で一杯で、2時間ぐらい待ってくれと言われてしまいました。
 やっぱりそうですよねー、休日の昼に予約無しでノコノコ来店する方が悪いですよね。
 それにしても人気ですな、満席でしたよ。

「お時間が無ければ、『プチ味蔵』でもランチがございます」とのこと。
 フルコースのランチとはレベルが下がるみたいですが、時間もないので、やむなくアベルの中にある「プチ味蔵」へ。

プチ味蔵

 矢上のアベル店舗の中に、テーブル席4つぐらいでしょうか、プチの名前の通り、こじんまりとした店があります。
 そこで、本店から回ってきたことを告げて、ランチ注文。

味蔵 ランチ

 まあ、ガツガツと満腹を狙う男にとっては物足りない内容ですが、この上品さがいいですな。……って、みそ汁がガラスカップに入ってくるとは…。

 ランチ券の額に余裕があったので、デザートとカプチーノつけてもらいました。

味蔵 デザート

 熊かイヌかネコか分からないですが、かわいらしいものです。これ、男が一人で楽しむものじゃないね(笑)。


 プチもいいですが、次こそ味蔵本店に……。
 みなさん、予約を忘れずに。


2013年6月8日土曜日

売薬資料館と広貫堂資料館でお土産もらえます

>>富山の薬売り(越中売薬)の由来は江戸城の事件から
>>「先用後利」〜富山の薬売りの歴史と精神〜

 上記のタイトルでも紹介した「富山の薬売り」マンガの為に、資料を求めて富山市の売薬資料館、広貫堂資料館(廣貫堂資料館)、薬種商の館・金岡邸へ行ってきました。

売薬資料館
富山市売薬資料館

 売薬資料館は入場料100円。ただ、パンフレットと、お土産として紙風船もらえます。
 館内は一応、写真撮影禁止なので様子をお伝えできませんが、さすがに展示品は一番充実しています。

広貫堂資料館
広貫堂資料館

 広貫堂資料館は入場無料。
 さすが企業経営の資料館なので、展示場よりも物品販売のコーナーの方が充実度満載です。

 おまけに、薬膳茶と薬膳ココアバーが無料もらえます(笑)。アンケートを書くことと、数分のビデオを見ることがもらえる条件でしょうかね。

やくぜんココアバー

 薬膳と言っても決して苦いものではなく、とても美味しかったです。これがもらえただけでも行ったかいがある……かも。

広貫堂資料館

 広貫堂資料館の展示室。売薬資料館よりは思いっきり小さいですが。

江戸城腹痛事件

 越中売薬のきっかけとなった、江戸城腹痛事件のジオラマがあります。

前田正甫と秋田輝季

 秋田輝季が、マジで痛そうです。なかなか精巧な作りですね。


 製薬の為の道具。
 「鹿茸(ろくじょう)」と呼ばれる幼鹿の角があります。中国シベリアに生息し、精力回復に効果があったそうで、鎖国の江戸時代でも輸入していました。

 製薬道具については、売薬資料館の方が思いっきり充実しています。


 製丸器。丸薬は、これで作られていたのですね。
 ヘラみたいなものは、下桝と言って、丸薬を数える時に使うもの。

懸場帳

薬売りさんの命とも言うべき、顧客情報の詰まった「懸場帳」。
 売薬の回る領域を「懸場」と言います。各家庭の配薬情報がすべて網羅されているので、今で言う個人情報として、当時でもかなり高く取引された模様。

柳行李

 血と汗と脂がにじむ、柳行李。
 売薬資料館では、段毎に「新しい薬」「回収する薬」「お土産品」など入れていた様子が分かるようになっていました。


 創業当時の薬袋。

サザエさんの広貫堂見学

 サザエさん一家が広貫堂に見学へ来た内容の放送回があったみたいです。その時のセル画が数枚展示されていました。
 いまやアニメ制作でセルを使われることは無くなりました。みんなコンピューター処理ですもんね。おまけに「サザエさん」は手でトレスしていたんじゃなかったっけな?



「先用後利」〜富山の薬売りの歴史と精神〜

>>前の記事(富山の薬売りの由来は江戸城の事件から)のつづき

 富山の薬売りは「先用後利(せんようこうり)」というキャッチフレーズを掲げて、全国に広められました。

先用後利(せんようこうり)

 先用後利とは、薬を先に使ってもらい、代金は後でいい、という話。
 薬のセットをあらかじめ客に預けておいて、半年か1年後に再び訪ね、使った薬の代金だけをもらい、更に薬を追加するというものです。

富山の薬売り


 これは江戸時代当時としては画期的なシステムで、なにせ町民・農民たちは貧困で常備薬など持てる状況ではありませんし、医者が現代ほど多くいた訳でもありません。
 それを、必要な時に使って、後から使った分だけ支払えばいいというのですから、こんなにおいしい話はありません。

 ただ、売る立場からすると、かなり不安な面もあります。預けた薬を持って夜逃げされるようなことも、きっとあったことでしょう。薬商と客の間の信頼関係が無いと成り立たない商売とも言えます。


 しかし、「医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」という富山藩主・前田正甫の精神は生き続けます。
 更には、富山は「真宗王国」と言われるほど浄土真宗が熱心な地域です。貧困であえぐ庶民に薬を届け健康を維持し、尊い命を守ることが、仏教の教えにも通じたのでしょう。

 幾多の困難を乗り越え、全国各地を黙々と歩き続ける回商・越中売薬は、まさに富山人だからこそできた事業なのかもしれません。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻より)

2013年6月7日金曜日

富山の薬売り(越中売薬)の由来は江戸城の事件から

 富山と聞けば、「越中売薬」「薬売り」と言われるほど「富山の薬売り」は有名です。
 今は配置薬を見かけることは少なくなりましたが、私も子供の頃、実家には置き薬があって、売薬さんがたまに訪問してくれていました。

 越中売薬には、三百年以上の歴史があります。
 交通が不便な江戸時代から、薬売りは全国の津々浦々を歩いて回り、貧富の差を問わず、各家庭に薬を配置し続けてきました。
 しかし、最初から富山が薬の産地だった訳ではありません。その売薬の始まり、由来は一体何だったのか。

 それは、元禄三年(1690)12月に江戸城で起きた小さな事件でした。


 江戸城内で、岩代三春(現在の福島県)の藩主・秋田輝季が突然激しい腹痛を訴えました。たまたまそこに、富山藩主・前田正甫が居合わせました。


 前田正甫は、印籠に入れていた丸薬・反魂丹を白湯と共に輝季に飲ませたところ、たちまちに腹痛はおさまりました。


 その経緯を周りで見ていた諸大名は、反魂丹の効き目に驚き「ぜひ我が藩でも売ってくれないか」と前田に頼みます。
 これが、越中売薬のはじまり物語と言われます。


 この話には、前置きがあって、そもそもなぜ前田正甫が丸薬を持ち歩いていたのか、ということがあります。
 もともと前田正甫は持病があり、それが縁で薬に大変関心を持ち、自分で薬を研究するほどだったと言われます。
 自分で薬を作ったといえば、徳川家康が思い出されますね。家康は相当の薬オタクとでも言うべきか、自ら作った薬で返って死期を早めたとも言われますが、特に前田正甫は備前の万代常閑が作った反魂丹を気に入り、彼を富山に呼び寄せて、城下の薬種商の松井屋源右衛門に製造を命じました。

 このようなことがあり、自身の病気回復の為に製薬に関心を持ち、実際に回復させた経験を持つ前田正甫だったからこそ、江戸城で秋田輝季が腹痛で苦しんでいる状況からとっさの判断ができたのでしょう。


 ただ、この時に売薬の約束をしたのは数藩にすぎませんでした。
 ですが、正甫はこの縁を大切にし、反魂丹だけでなく、熊胆丸や奇応丸など数種の薬を売りに行かせました。
 その後何十年もかけて、富山藩は売薬を全国に広めていきます。


 売薬とは関係ないですが、前田正甫は徳川光圀と同じ時代で、かの時代劇ドラマ『水戸黄門』には度々登場しているキャラクターです。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻より)



2013年6月1日土曜日

矢上駅の矢上高校美術部による看板がアレで

今はすっかり寂れていますが、島根県邑南町矢上のバス停留所「矢上駅」に、大きな看板が取り付けられていました。

矢上高校 美術部


矢上高校美術部による制作らしい。

高校生にまじって赤ちゃんがいるのは、何やら不謹慎な感じがしますが、これは「子育て日本一の町」を目指す邑南町に配慮してのデザインだそうです。


一応、私も矢上高校美術部出身でして……って、確か当時は2、3人ぐらいしかいなくて、遊んでばかりで部活らしいことは何もしていませんでしたけどね。

後輩の頑張りを見て嬉しくなりますが、なんだろうな、こういうのを見ると、何か手直ししたくなるな(笑)。
情報がないんですよね。特に私の時なんかインターネットがなくて。サブカルチャーのイラストを描きたくても、どうすりゃいいか情報が手に入らないド田舎ですから。
そういう意味では、今は恵まれている。後輩美術部員よ、pixivアカウントでも取って投稿しはじめてみなされ。