堀秀政は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、何をやらせてもそつなくこなしたことから「名人久太郎」と呼ばれるほど有能な人で、現代のネット社会でも「Q太郎」と言われているとか(笑)。
織田信長の小姓だった秀政は、後に秀吉に仕え数々の軍功を上げ、長浜城主、佐和山城主などを経て、丹羽長秀後の北ノ庄城に入りました。
さて、織田家家臣だった「オダケのQ太郎」……じゃなかった、名人久太郎・堀秀政は一体どんな名人芸を見せてくれたのでしょうか。
たとえば、小牧・長久手の戦いでは、敗戦となった秀吉軍にいた秀政ではありますが、家康軍に打撃を加え、大きな損害を出すことなく陣を引いています。
特に人を用いることが上手で、どんな家臣も軽々しく扱うことなく、感情のもつれが起きないように心配りしていたそうです。
「どんな人間にも取り柄がある」と言っていた秀政。
家臣の中に、いつも涙目で眉をしかめてうつむいて歩く者がいて、皆から嫌われていた人がいました。「あいつは不吉なので、暇を出されては」と言っている家臣に対して秀政は「どんな人間にも使い道はある。さしずめ、他家の葬式に使者として使わせば丁度いいのでは」と、そのまま登用させたとか。
他、『名将言行録』にいくつか記載されている中で、北ノ庄城主だった時に、町の辻に堀秀政の非難文が立てられたという話があります。
立て札には、秀政家臣の城下町人に対する素行の悪さなど、三十二、三か条も列記されてあったそうです。
封建社会に置いて、匿名とは言えこのような立て札を立てるのは、死を覚悟しなければならないほどでしょう。統率者に取ってみれば、諫言というものは、いつの時代も簡単に受け入れられるものではありません。
ところが、家臣が城内に持ち帰った立て札を、秀政は「これは我が家の家宝である」と押し頂き、丁寧に箱に収め、早速家臣たちを集めて、立て札の内容を評議させ、悪いところを改めさせました。
この話、その後「さすが秀政さまは名君です」という立て札が建てられた、と記されているところもあれば、この立て札そのものが秀政の自作自演だったと書かれている書物もあります。
たとえそうであっても、家臣の不正を正すための、秀政の名人芸であったに違いありません。
その堀秀政、残念なことに秀吉の小田原攻めの際、陣中で病死してしまいます。享年38歳。
もしそのまま生きていれば、秀吉の重要な家臣として、大老職にもなったことでしょう。豊臣秀吉は、小田原攻めの後に関東を任せるのは徳川家康ではなく堀秀政のつもりだった、とも言われますが、その早過ぎる死は惜しまれてなりません。
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