2013年6月28日金曜日

トム出版のオリジナル・ノートの印刷を試す

 オリジナルノート……と言っても、ネットで多く見るパターンは「様々なアイテムを組み合わせて、自分好みのノートを作る」という物ですが、今回は表紙から中身まで自分の絵柄で作成するというもの。
 しかも、小ロットながらも、そこそこ安価で。

 そうなると同人誌関係の印刷所に頼むことになりますが、最初に狙っていたのは「サンライズ印刷のリング綴じノート
 B6サイズで中身は40枚。100冊で28000円なり。むむむ。

 よく使う「栄光印刷」は、ノートグッズは無い。

 そこで「トム出版のオリジナルノート」を見つけました。
 B5サイズで、中身は32ページ。50冊で8000円(送料込)。
 小ロット依頼には、手頃ではないか。


 ということで、物は試しに依頼してみました。
 
トム出版のオリジナルノート

 表紙、テカテカツルツルです。
 ちょっと反ります。

 出稿データはイラストレーターデータへの画像埋め込みだったのですが、おそらくイラレデータに変なプロファイルを埋め込んでしまったのか、ちょっと思ったものより薄く、コントラストが強く印刷されてしまいました。

オリジナルノート

 ホッチキスによる中とじ。
 中身の罫線もイラストレーターで作りましたが、罫線濃度は60%では薄く感じますね。


 ということで、別の方のイラストで再度トライしてみました。


 前回の反省を元に、イラストレーターデーターによる出稿ではなく、フォトショップデーターで出稿しました。
 色味は狙った通り、いい感じです。


 中の罫線濃度は80%にしましたが、今度はいい感じです。
 指定する色にもよるでしょう。そりゃ100%濃度だとしても、黄色などを選べば薄く感じることでしょう。

 ちょっとしたノベルティ、子供に配るなどには丁度いいですね。
 50冊注文の場合、余分に10冊程度つけてくれます。
 難点をあえて言えば、テカテカの表紙が反り気味なのが何とも。中とじだから仕方ないのでしょうけどね。

 トム出版のサイトでは説明不足や不明点も多い感じなので、以上ご参考までに。



2013年6月26日水曜日

伊能忠敬 50歳からの挑戦

 日本全国を徒歩で歩き、最初の精密な日本地図を作製したことで有名な伊能忠敬
 その伊能忠敬は、最初から天文・測量を志していた訳ではなく、50歳以降からの勉学によって成し遂げた偉業であることに驚かされます。

 伊能忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)に神保家の次男として生まれました。
  幼くして母が他界、父親や兄弟とも別れて暮らし、孤独な子供時代でしたが、早くから利発だったと言われます。

伊能忠敬マンガ

 宝暦十二年(17642)18歳の時、下総国佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子に迎えられ、21歳の達(みち)と結婚しています。
 当時、伊能家は佐原村の名主であり、酒造業や水運業を営んでいました。
 しかし、達の父親は37歳で他界。同じ歳には、父親の兄も亡くなり、達の母は19歳で未亡人に。その後、14歳の達を伊能家の跡継ぎにして、同族の18歳の男を婿に迎えますが、その彼も20歳で他界。忠敬はこの後に達と結婚することになります。
  当主が若くして亡くなり、しばらく伊能家は親戚がきりもみしていた分、忠敬にかかる責任は重く、勉学の志を持ちながらもそれを後回しにして、朝から晩まで家業に専念することになります。

 天明3年(1783)、浅間山の大噴火により関東一円の農作物は甚大な被害を受け、大雨による利根川氾濫が佐原村を襲い、伊能忠敬は窮乏した村民たちの救済に奔走します。その後「天明の大飢饉」と言われる大凶作が続くことになります。
  忠敬は、利根川の水防工事などに率先して立ち上がり、その功績から領主・津田氏より帯刀を許されています。

  そんな中、妻である達が病死。その悲しみの中、天明5年はさらに飢饉がひどくなり、江戸・大阪では打ち壊しが起こり、利根川の氾濫、疫病、米価の高騰、あらゆる災難が襲ってきますが、忠敬の懸命の采配で、家業の復興だけでなく、救民にも積極的に取り組み成果を得ます。

伊能忠敬

 伊能家の経営は安定しますが、不幸も多くありました。妻・達の前夫の子は6歳で、また次女は19歳で亡くなり、忠敬45歳の時に迎えた二番目の妻・信(のぶ)は難産の為病没。
 それにしても、昔の女性は早くに子供を産み、人の生もあっという間に終わったのですね……長寿・晩婚の現代とは相当違った価値観があったのでしょう。

伊能忠敬マンガ

 寛政6年(1794)、忠敬49歳の時に、家督を長男の景敬に譲り隠居。翌年に江戸深川黒江町(現江東区)へ出て隠居所を構えました。
 ここから彼に第二の人生が始まる事になります。 

 江戸にでた50歳の伊能忠敬は、長年伊能家の家業に専念して、できなかった勉学に打ち込み始めます。
  主に暦学を学び、当時使われていた暦が実際とは合わないことを多くの暦算家に質問しますが満足な答えが来ません。
 そんな中、幕府天文方の高橋至時が明快な答えを示し、忠敬は高橋と師弟関係を結んだと言います。もちろん、忠敬が弟子です。この時、高橋至時は31歳。周囲は「年下の者を師匠にするとは、物好きな男だ」と笑ったと言われます。

高橋至時マンガ

  高橋至時の元で、忠敬は猛烈に勉学に励み、高橋は忠敬のことを「推歩先生」とあだ名します。推歩とは暦の計算をすることです。
  忠敬は自宅に天文機器を揃え、毎日欠かさず正午の太陽を計り、夜はきまって星空を観測。寛政9年(1797)には、白昼の金星を観測したことは日本人初の快挙だったそうです。

 そんな中、地球の大きさはどれほどなのか、緯度1度の正確な長さが問題になります。
 忠敬は江戸市中で距離と星の高さを観測してある答えを導きだしますが、高橋至時は、その誤差の大きさを指摘します。実際に緯度1度の長さを測るには、江戸と蝦夷(北海道)ほど離れて観測しないと正確な答えは出ないでしょう、と。
 そこで忠敬は、蝦夷行きを願い出ますが、各地を勝手に測量する訳にもいきません。
 当時、蝦夷地にはロシア船が出没して国を脅かしていましたから、高橋至時は蝦夷の地図作製を理由に測量の許可を幕府に願い出ます。
 幕府はなかなか答えを出しませんでしたが、自腹を切手でも蝦夷に行きたいという忠敬の熱意に押されたのか、わずかな手当をもって測量を許可します。
 わずかと言っても、渡し船などの代金補助ぐらいものもで、宿泊などの旅費一切は忠敬が負担したといいます。測量にかける相当の熱意が伝わってきます。
 当然、50歳までの伊能家での家業成功が無ければ、切り出せないことであったことには違いありません。


 寛政12年4月、56歳の忠敬は江戸から蝦夷に向けて出発。従うメンバーには忠敬の子・秀蔵もいました。
 蝦夷では函館から根室近くまでの海岸線を測量、同年12月には地図を幕府に献上しています。さすがの高橋至時も、出発前は不安に思っていましたが、地図の予想以上の出来映えに感嘆したと言います。

 これを機に、忠敬は日本全国の測量と地図作製に情熱を燃やすことになります。
 先にも述べましたように、伊能忠敬の周辺は若死にする者が多く、正に「人間五十年」は言い過ぎな程短い寿命の時代にあって、50歳以降に勉学に燃え、更には徒歩で日本全国を歩くという離れ業を行った忠敬の姿には、本当に驚かされます。

 おそらく彼は、永遠の青年であったのでしょう。

 志を高く持ち、常に大きな目標に向かう気持ちを持つことは、何より自分に健康をもたらすのでしょう。
 私も、常に青年でありたいものです。 



参考文献
『新考 伊能忠敬 九十九里から大利根への軌跡』伊藤一男著 崙書房出版
『日本逸話全集』田中貢太郎著 桃源社
『伊能忠敬』伊達牛助著 古今書院
『その時歴史が動いた6』NHK取材班編 KTC中央出版
『NHKにんげん日本史 伊能忠敬』小西聖一著 理論者

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)



  

2013年6月15日土曜日

高島屋の歴史 〜混乱の中で信頼を勝ち取る〜


 高島屋にとって、大きな事件が元治元年(1864)に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」でした。

 戦により火災が発生し、京都市中の家屋約二万八千余戸を焼くという大火になります。これはなす術もなくどんどん家が焼けてしまったので「どんどん焼け」と呼ばれ伝えられた大火災なのですが、高島屋も消失の憂き目に会いました。

高島屋と禁門の変


 ただ、飯田新七と婿養子の新兵衛はいち早く商品を近くの寺に避難させます。
 また、店舗は失いましたが、土蔵は焼け残ります。そこには土蔵の中央に水をたたえた風呂桶と各所に樽を置くという機転がありました。また、火災後すぐに土蔵を開けると、中の熱い空気と外の空気が触れて火が発生するので、二日間冷えるのを待ってから開けたので、中の商品は守られたという話もあります。


 ともあれ、火災の一週間後には露店を出して商いを始め、着の身着のまま焼けだされた人々に、通常通りの値段で商品を売ったので、大評判となりあっという間に売り切れたと言われます。

 このような混乱の時は稼ぎ時で、粗悪品を高く売りつける商人が出るのは当然のことでしたが、高島屋は良い品を値上げすることなく売ったので、結果、顧客の絶大なる信頼を勝ち取ることになりました。


 その後、幕末から明治維新の混乱の中、商売道徳は地に落ち、早売り早儲けに走り、品質の改良を顧みる者もなく粗悪なものが出回るようになっても、高島屋は商品研究を怠らず、良品廉価の商いを貫きました。

 そして二代目の言葉です。
「世間はいざしらず、我店で取り扱う商品は、堅牢確実なものを売らんと決心し、染に織に十分の吟味を加え、もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、併せて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」

 飯田新七が高島屋を起こした初心である、自利利他の精神を守り通したことが、大きな発展に繋がったと言えましょう。

2013年6月13日木曜日

高島屋発展の歴史 〜初代・飯田新七と自利利他の精神〜

「高島屋」と言えば、国内最大級のデパートとして有名であり、バラのイメージで高貴な雰囲気漂う百貨店ですが、最初は江戸時代に貧しい夫婦が始めた古着屋でした。

 高島屋は、天保2年(1831)1月10日、京都の烏丸通松原上ル西側に誕生しました。
 初代の飯田新七は享和3年(1803)の越前敦賀生まれ。10歳で京都に出て、呉服商に奉公。大津までの3里の道を、重い荷物を背負って朝早く出かけ夜遅く帰ったので、京都にいながら京都を知らなかったと言われます。

 その後25歳の時、米殻商・高島屋の飯田儀兵衛が婿養子に迎え、分家という形で古着の行商を始めます。
 しかし、小さな店を出したものの、資金は出店で精一杯で、並べる商品を仕入れるお金にも困る状態。

高島屋の歴史

 しかし、そこを乗り越えさせたのが妻の力。困る夫の姿を見て、嫁入り用の着物を差し出して「着物は四季それぞれに一着あれば間に合うし、お金ができればまたいつか買える」と商品にしたという逸話があります。

 他、隣の同業者よりも朝早く起きて、一家そろって掃除に励んだので「高島屋はよく気張る」と評判を呼んだり、顧客のニーズを調べる為に街頭で聞きに回るという、現代で言うアンケートを行って商売形態を検討したり、地道ながらも確実に基盤を固めて行きます。


 彼は妻と話し合って、創業の精神を四カ条にまとめました。
一、確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし
二、正札掛値なし
三、商品の良否は、明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず
四、顧客の待遇を平等にし、苟も貧富貴賎に依りて差等を附すべからず
 特に第一の「自他の利益を図るべし」と、自分たちもお客さんも、双方が得をするような商売をしていこうと誓ったのです。

 同じ頃の同業者としては、慶長16年に尾張で創業した呉服屋(現:松坂屋)が江戸に進出、1673年創業の越後屋(現:三越)、1717年創業の京都・大文字屋(現:大丸)など豪商も多く、高島屋はかなり後発と言えるでしょう。 


 そもそも、当時の庶民の生活は貧しく、幕府により贅沢は禁じられて新しい呉服を着る事ができず、もっぱら衣服は木綿や古着でした。
 大名や富豪相手の呉服店チェーンよりも、高島屋は小規模ながら庶民を相手にじわじわと経営基盤を固めて行くことになります。

2013年6月12日水曜日

縄文村の自然食バイキングは絶景で楽しめる

 グルメの町として突っ走る邑南町で、先陣を切っているのは「味蔵」ではなくて縄文村じゃないかと、私個人的には思っているのですけどね。

 縄文村は、浜田道・瑞穂インターから原山雲海ロードを走って、旧石見町に入るとすぐに遭遇する建物。
 地元産の有機栽培野菜などを使った、自然食ランチバイキングが楽しめるお店です。
そもそも「縄文村」という名前の由来は、ランチのご飯に「古代米」を使うからとか何とか聞いたことがありますが、邑南町がA級グルメを名乗る前から営業し、常連さんも多いです。
 休日の休みともなると、広島ナンバーなど根強いファンが詰めかける人気店。

 なにせ、ロケーションがすごい。店内の庭から於保地(おほち)盆地が見渡せる絶景の店。

縄文村中庭

 店の表側からは分かりませんが、なにせこの素晴らしい景色を見ながら食事できるのですから、そりゃ固定客も生まれますよね。

於保地盆地

 ランチはバイキングになっているので、取り放題で満腹になれます。

縄文村のランチバイキング


自然食バイキング

 店長さんとは、地元郷土史関係で知り合いでして、よく立ち寄るのですが、「そこにお茶があるから自由に飲め」と言われてみて見れば、茶が入った釜があるんですよね。


 炭火で湧かしているみたいです。
 脇にある竹細工の柄杓ですくえと……とことん自然ですな。

 詳しいことは、縄文村のサイトにあります。ランチバイキングは午前11時から無くなるまで……って、品は人数に合わせてガンガン出てきますけどね。
 また、店から盆地を眺められるライブカメラもありますので……って、なんかプラグインの不具合で私はうまく見れないのですが、なにせ色んな意味で大好きなお店です。


2013年6月10日月曜日

味蔵は予約一杯なので「プチ味蔵」へ行った

 B級ではなくてA級グルメで勝負をかけている邑南町

 つくづくスゴイと思う。各生産物によほど自身が無いと、A級なんて名乗れないですよ。
 仕掛人がやり手なんでしょうね。
 こんな山奥の人口少ない町で、こんな戦略立てて大丈夫かねと思いますね。実家の母が「人口少ないのに飲食店がこれだけあって、つぶれないのが不思議」と言っていましたが、広島方面からの客で味蔵は結構な人気なのだとか。浜田道様々ですな。

 個人的には、素朴ながら腹一杯食べられる「縄文村」が好きなんですが、たまたま味蔵のランチ券を1枚もらったので、行ってみました。

 ……が、昼は予約で一杯で、2時間ぐらい待ってくれと言われてしまいました。
 やっぱりそうですよねー、休日の昼に予約無しでノコノコ来店する方が悪いですよね。
 それにしても人気ですな、満席でしたよ。

「お時間が無ければ、『プチ味蔵』でもランチがございます」とのこと。
 フルコースのランチとはレベルが下がるみたいですが、時間もないので、やむなくアベルの中にある「プチ味蔵」へ。

プチ味蔵

 矢上のアベル店舗の中に、テーブル席4つぐらいでしょうか、プチの名前の通り、こじんまりとした店があります。
 そこで、本店から回ってきたことを告げて、ランチ注文。

味蔵 ランチ

 まあ、ガツガツと満腹を狙う男にとっては物足りない内容ですが、この上品さがいいですな。……って、みそ汁がガラスカップに入ってくるとは…。

 ランチ券の額に余裕があったので、デザートとカプチーノつけてもらいました。

味蔵 デザート

 熊かイヌかネコか分からないですが、かわいらしいものです。これ、男が一人で楽しむものじゃないね(笑)。


 プチもいいですが、次こそ味蔵本店に……。
 みなさん、予約を忘れずに。


2013年6月8日土曜日

売薬資料館と広貫堂資料館でお土産もらえます

>>富山の薬売り(越中売薬)の由来は江戸城の事件から
>>「先用後利」〜富山の薬売りの歴史と精神〜

 上記のタイトルでも紹介した「富山の薬売り」マンガの為に、資料を求めて富山市の売薬資料館、広貫堂資料館(廣貫堂資料館)、薬種商の館・金岡邸へ行ってきました。

売薬資料館
富山市売薬資料館

 売薬資料館は入場料100円。ただ、パンフレットと、お土産として紙風船もらえます。
 館内は一応、写真撮影禁止なので様子をお伝えできませんが、さすがに展示品は一番充実しています。

広貫堂資料館
広貫堂資料館

 広貫堂資料館は入場無料。
 さすが企業経営の資料館なので、展示場よりも物品販売のコーナーの方が充実度満載です。

 おまけに、薬膳茶と薬膳ココアバーが無料もらえます(笑)。アンケートを書くことと、数分のビデオを見ることがもらえる条件でしょうかね。

やくぜんココアバー

 薬膳と言っても決して苦いものではなく、とても美味しかったです。これがもらえただけでも行ったかいがある……かも。

広貫堂資料館

 広貫堂資料館の展示室。売薬資料館よりは思いっきり小さいですが。

江戸城腹痛事件

 越中売薬のきっかけとなった、江戸城腹痛事件のジオラマがあります。

前田正甫と秋田輝季

 秋田輝季が、マジで痛そうです。なかなか精巧な作りですね。


 製薬の為の道具。
 「鹿茸(ろくじょう)」と呼ばれる幼鹿の角があります。中国シベリアに生息し、精力回復に効果があったそうで、鎖国の江戸時代でも輸入していました。

 製薬道具については、売薬資料館の方が思いっきり充実しています。


 製丸器。丸薬は、これで作られていたのですね。
 ヘラみたいなものは、下桝と言って、丸薬を数える時に使うもの。

懸場帳

薬売りさんの命とも言うべき、顧客情報の詰まった「懸場帳」。
 売薬の回る領域を「懸場」と言います。各家庭の配薬情報がすべて網羅されているので、今で言う個人情報として、当時でもかなり高く取引された模様。

柳行李

 血と汗と脂がにじむ、柳行李。
 売薬資料館では、段毎に「新しい薬」「回収する薬」「お土産品」など入れていた様子が分かるようになっていました。


 創業当時の薬袋。

サザエさんの広貫堂見学

 サザエさん一家が広貫堂に見学へ来た内容の放送回があったみたいです。その時のセル画が数枚展示されていました。
 いまやアニメ制作でセルを使われることは無くなりました。みんなコンピューター処理ですもんね。おまけに「サザエさん」は手でトレスしていたんじゃなかったっけな?



「先用後利」〜富山の薬売りの歴史と精神〜

>>前の記事(富山の薬売りの由来は江戸城の事件から)のつづき

 富山の薬売りは「先用後利(せんようこうり)」というキャッチフレーズを掲げて、全国に広められました。

先用後利(せんようこうり)

 先用後利とは、薬を先に使ってもらい、代金は後でいい、という話。
 薬のセットをあらかじめ客に預けておいて、半年か1年後に再び訪ね、使った薬の代金だけをもらい、更に薬を追加するというものです。

富山の薬売り


 これは江戸時代当時としては画期的なシステムで、なにせ町民・農民たちは貧困で常備薬など持てる状況ではありませんし、医者が現代ほど多くいた訳でもありません。
 それを、必要な時に使って、後から使った分だけ支払えばいいというのですから、こんなにおいしい話はありません。

 ただ、売る立場からすると、かなり不安な面もあります。預けた薬を持って夜逃げされるようなことも、きっとあったことでしょう。薬商と客の間の信頼関係が無いと成り立たない商売とも言えます。


 しかし、「医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」という富山藩主・前田正甫の精神は生き続けます。
 更には、富山は「真宗王国」と言われるほど浄土真宗が熱心な地域です。貧困であえぐ庶民に薬を届け健康を維持し、尊い命を守ることが、仏教の教えにも通じたのでしょう。

 幾多の困難を乗り越え、全国各地を黙々と歩き続ける回商・越中売薬は、まさに富山人だからこそできた事業なのかもしれません。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻より)

2013年6月7日金曜日

富山の薬売り(越中売薬)の由来は江戸城の事件から

 富山と聞けば、「越中売薬」「薬売り」と言われるほど「富山の薬売り」は有名です。
 今は配置薬を見かけることは少なくなりましたが、私も子供の頃、実家には置き薬があって、売薬さんがたまに訪問してくれていました。

 越中売薬には、三百年以上の歴史があります。
 交通が不便な江戸時代から、薬売りは全国の津々浦々を歩いて回り、貧富の差を問わず、各家庭に薬を配置し続けてきました。
 しかし、最初から富山が薬の産地だった訳ではありません。その売薬の始まり、由来は一体何だったのか。

 それは、元禄三年(1690)12月に江戸城で起きた小さな事件でした。


 江戸城内で、岩代三春(現在の福島県)の藩主・秋田輝季が突然激しい腹痛を訴えました。たまたまそこに、富山藩主・前田正甫が居合わせました。


 前田正甫は、印籠に入れていた丸薬・反魂丹を白湯と共に輝季に飲ませたところ、たちまちに腹痛はおさまりました。


 その経緯を周りで見ていた諸大名は、反魂丹の効き目に驚き「ぜひ我が藩でも売ってくれないか」と前田に頼みます。
 これが、越中売薬のはじまり物語と言われます。


 この話には、前置きがあって、そもそもなぜ前田正甫が丸薬を持ち歩いていたのか、ということがあります。
 もともと前田正甫は持病があり、それが縁で薬に大変関心を持ち、自分で薬を研究するほどだったと言われます。
 自分で薬を作ったといえば、徳川家康が思い出されますね。家康は相当の薬オタクとでも言うべきか、自ら作った薬で返って死期を早めたとも言われますが、特に前田正甫は備前の万代常閑が作った反魂丹を気に入り、彼を富山に呼び寄せて、城下の薬種商の松井屋源右衛門に製造を命じました。

 このようなことがあり、自身の病気回復の為に製薬に関心を持ち、実際に回復させた経験を持つ前田正甫だったからこそ、江戸城で秋田輝季が腹痛で苦しんでいる状況からとっさの判断ができたのでしょう。


 ただ、この時に売薬の約束をしたのは数藩にすぎませんでした。
 ですが、正甫はこの縁を大切にし、反魂丹だけでなく、熊胆丸や奇応丸など数種の薬を売りに行かせました。
 その後何十年もかけて、富山藩は売薬を全国に広めていきます。


 売薬とは関係ないですが、前田正甫は徳川光圀と同じ時代で、かの時代劇ドラマ『水戸黄門』には度々登場しているキャラクターです。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻より)



2013年6月1日土曜日

矢上駅の矢上高校美術部による看板がアレで

今はすっかり寂れていますが、島根県邑南町矢上のバス停留所「矢上駅」に、大きな看板が取り付けられていました。

矢上高校 美術部


矢上高校美術部による制作らしい。

高校生にまじって赤ちゃんがいるのは、何やら不謹慎な感じがしますが、これは「子育て日本一の町」を目指す邑南町に配慮してのデザインだそうです。


一応、私も矢上高校美術部出身でして……って、確か当時は2、3人ぐらいしかいなくて、遊んでばかりで部活らしいことは何もしていませんでしたけどね。

後輩の頑張りを見て嬉しくなりますが、なんだろうな、こういうのを見ると、何か手直ししたくなるな(笑)。
情報がないんですよね。特に私の時なんかインターネットがなくて。サブカルチャーのイラストを描きたくても、どうすりゃいいか情報が手に入らないド田舎ですから。
そういう意味では、今は恵まれている。後輩美術部員よ、pixivアカウントでも取って投稿しはじめてみなされ。