「堪忍」の一句の話。
怒りの心とは、げに恐ろしいもので、路上でちょっと肩が当たったことから言い争いになり命を落としたという話もあります。
腹を立てて暴言を吐いたり、乱暴を働いた後、大体の場合は後悔しかありません。
「あの時怒っておいてよかった」という例は、ほとんど無いのではないでしょうか。
この「堪忍の一句」の話は各地にあるようで、特に参考にしたのは『譬喩尽』にある「龍渓禅師」の話です。
龍渓禅師とは江戸時代初期の人。
禅師の元で学問に励んでいた弘善という人に「秀才博識なりといえども、大道を知らない。文字言葉を離れたまっしぐらの大道の言葉を授ける」と言って禅師が告げたのが「堪忍」の言葉でした。
何かあった時は、この「堪忍」の言葉を唱えて三歩下がりなさい、と禅師は言うのです。
これを聞いた弘善は「なんだその程度、何が大道か」と心中あざけりますが、六年後実家に帰ると事件が勃発します。
妻が留守番をしているはずが、家の中にいたのは妻だけではなく、ずきんをかぶった男でした……と、この後どうなったかは、マンガを見てください。
『日本例話大全集』の中には「千両の堪忍袋」という題で、九州の話があります。
ある九州の大名が「短気の治る妙薬が欲しい」と家臣に命じて、諸国へ探しに出かけさせます。
そしてある町で見つけたのが「堪忍袋」という代物。
粗末な木綿の袋の中に「まったり、まったり」と書いた半紙が1枚入っているだけのものが、千両という高額で売られていたのです。
「いくらなんでも不埒な商売だ」と言えば「けっして高くはありません。千両はおろか、一万両でも安いと思う時があるでしょう」と返される。
しぶしぶ千両で求めて実家に戻れば、妻の隣に仲むつまじそうな男の影が……。
「おのれ!」と刀に手をかけて暴れ込もうとした瞬間、堪忍袋から「まったり、まったり」と声が聞こえてきた。
はっと気がついた彼は、一息ついて「ここは待ったり、待ったり」と冷静になり、家に入れば、その男の影は妻の父親でした。
婿の長旅に、娘一人に留守居をさせるのが不憫と思った舅だったのです。
堪忍袋を受け取った大名は「なんだこんなもの」と思ったものの、その家臣から聞いた妻と舅の話を聞くと、「なるほど、腹のたった時は、まったりまったりと思慮しなければならぬ。千両は安いものだ」と言って喜んだそうです。
さすがに千両で売った人は、ぼろ儲けだろうと思いますけどね(笑)。
ただ、ちょっとした誤解から生じた怒りの炎によって、千両よりももっと大事な妻の命を奪うところであった……怒りの心は恐ろしい、という教訓がよく分かる話です。
最近私の家では、子供に「宿題しなさい」と言ってもやらない、「ピアノの練習しようね」と言ってもやらない、「晩ご飯ですよ」と呼んでもテレビ見てて来ない、言うこと聞かない子供たちに妻が怒りのあまり怒鳴り散らす。
それを聞いた子供は、余計に腹を立てて一層親に従おうとはしない……。こんな光景がよくあります。
怒りの心にまかせて怒鳴るのは、実は簡単なこと。レベルは子供と同じ。楽な方法ではありますが、でも気持ちのいい解決にはなりません。
その怒りの心を抑えて、子供がよい方向に向かうように諭して導くことは、これはかなり難しいことだと知らされます。かなり我慢しなければなりませんから、エネルギーを使いますよね。
ですが、結果、怒りを抑えた方が、気持ちのいい結果を得ることができるものです。
2013年7月31日水曜日
2013年7月17日水曜日
「敵に塩を送る」の語源・上杉謙信と塩の話
平成24年(2012)10月、年に一度行われる「IMF(国際通貨基金)世界銀行年次総会」が東京で開催されました。
日本での開催は48年ぶりの2度目。世界中の財務大臣や中央銀行総裁らが集う世界最大規模の国際会議です。
その会議で、ラカルドIMF専務理事が『敵に塩を送る』という日本の故事を引き出し、「困難な時には、お互いを助け合うことが前進する唯一の道である」と演説しました。
今や、『敵に塩を送る』という言葉は世界規模で知られることになった訳です。
その語源は、多くの人が知る如く、戦国時代の武将・上杉謙信が、宿敵である武田信玄に塩を送ったという出来事から来ています。
生涯のライバルであった上杉謙信と武田信玄……そう語られるのは後世のことであって、元々謙信は信玄をひどく嫌っていたという話もあります。
しかし、信玄の死を聞いた謙信は「好敵手を失った」と号泣したとも伝えられ、また信玄は臨終に「困ったことがあれば義に厚い謙信を頼れ」と息子勝頼に遺言したとも言われます。
川中島を中心に、お互いに痛い目に合いながらも、何かしら友情めいたものがあったと後の世の人が考えたくなるのも当然と言えば当然でしょうね。
さて、武田の領国は山に囲まれ海に接していないことに目を付け、塩止めを行ったのは駿河の今川氏真でした。
今川義元を桶狭間で失った後の今川領内は混乱しており、また信玄の嫡男である義信は義元の娘と結婚しており武田家とは親戚関係でしたが、その武田義信は早くに死去し、それを機に信玄は駿河侵攻を始めます。
窮した氏真は、隣国の北条氏康と計り、武田領国への塩商人の往来を禁止します。
これは永禄十年の書状にあることから事実のようで、塩止めは数年続くことになったようです。
この効果はどうであったのか。
武田領内は相当な打撃を受け、吉川英治も小説の中で「三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない信玄も『いかにせんか』と日々屈託顔に見えた」と描いている程。
かたや、駿河侵攻が早かった、はたまた越中から信濃に入る商人ルートがあったとして、打撃はそんなに大きくなかったのではないかという見方もあります。
ちなみに、山梨県には「塩山」という地名があり、かつて岩塩がとれたという説がありますが、それはどうも違うようです。
それにしても、塩が無いと味噌も漬物もできません。
特に雪が降る山間部に置いて、保存食が作れないのは大打撃でしょう。
昔、民放ドラマで『おんな風林火山』という番組があり、その中で甲斐金山で働く鉱夫が「うう、塩をくれ、塩を〜」とまるで薬物中毒者のような演技をしていました。まあ、それはあくまでドラマの演出であって行き過ぎでしょうが、じわじわと塩の無い苦しみは武田領内を襲ったことでしょう。
その今川氏真は、当然ながら日本海側からの塩輸送も止める為、上杉謙信にも協力を求めたようですが、謙信は「我らには我らの策があるので」と断ったと吉川英治は書いています。
そして、謙信自ら武田に塩を送ったかどうかは色々説があり定かではありませんが、塩商人の往来は止めなかったようです。
武田信玄は、謙信に対して「福岡一文字」の名刀を送って感謝の意を表したと伝えられ、事実その太刀は現在重要文化財に指定されています。
その謙信、かなりの酒好きであったと言われ、味噌や梅干しを肴に飲んでいたと伝えられます。
その肴の塩分取り過ぎと飲酒により高血圧となり、脳溢血で死亡したという説が有力です。享年49。
「敵に塩を送る」……宿敵信玄に送った塩でまた、自分の死期を早めたのでしょうか。
(参考文献)
岡谷繁実『名将言行録』
湯浅常山『常山紀談』
奥野高広『武田信玄』
吉川英治『上杉謙信』
財務省編『IMF・世銀年次総会開催』
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)
日本での開催は48年ぶりの2度目。世界中の財務大臣や中央銀行総裁らが集う世界最大規模の国際会議です。
その会議で、ラカルドIMF専務理事が『敵に塩を送る』という日本の故事を引き出し、「困難な時には、お互いを助け合うことが前進する唯一の道である」と演説しました。
今や、『敵に塩を送る』という言葉は世界規模で知られることになった訳です。
その語源は、多くの人が知る如く、戦国時代の武将・上杉謙信が、宿敵である武田信玄に塩を送ったという出来事から来ています。
生涯のライバルであった上杉謙信と武田信玄……そう語られるのは後世のことであって、元々謙信は信玄をひどく嫌っていたという話もあります。
しかし、信玄の死を聞いた謙信は「好敵手を失った」と号泣したとも伝えられ、また信玄は臨終に「困ったことがあれば義に厚い謙信を頼れ」と息子勝頼に遺言したとも言われます。
川中島を中心に、お互いに痛い目に合いながらも、何かしら友情めいたものがあったと後の世の人が考えたくなるのも当然と言えば当然でしょうね。
さて、武田の領国は山に囲まれ海に接していないことに目を付け、塩止めを行ったのは駿河の今川氏真でした。
今川義元を桶狭間で失った後の今川領内は混乱しており、また信玄の嫡男である義信は義元の娘と結婚しており武田家とは親戚関係でしたが、その武田義信は早くに死去し、それを機に信玄は駿河侵攻を始めます。
窮した氏真は、隣国の北条氏康と計り、武田領国への塩商人の往来を禁止します。
これは永禄十年の書状にあることから事実のようで、塩止めは数年続くことになったようです。
この効果はどうであったのか。
武田領内は相当な打撃を受け、吉川英治も小説の中で「三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない信玄も『いかにせんか』と日々屈託顔に見えた」と描いている程。
かたや、駿河侵攻が早かった、はたまた越中から信濃に入る商人ルートがあったとして、打撃はそんなに大きくなかったのではないかという見方もあります。
ちなみに、山梨県には「塩山」という地名があり、かつて岩塩がとれたという説がありますが、それはどうも違うようです。
それにしても、塩が無いと味噌も漬物もできません。
特に雪が降る山間部に置いて、保存食が作れないのは大打撃でしょう。
昔、民放ドラマで『おんな風林火山』という番組があり、その中で甲斐金山で働く鉱夫が「うう、塩をくれ、塩を〜」とまるで薬物中毒者のような演技をしていました。まあ、それはあくまでドラマの演出であって行き過ぎでしょうが、じわじわと塩の無い苦しみは武田領内を襲ったことでしょう。
その今川氏真は、当然ながら日本海側からの塩輸送も止める為、上杉謙信にも協力を求めたようですが、謙信は「我らには我らの策があるので」と断ったと吉川英治は書いています。
そして、謙信自ら武田に塩を送ったかどうかは色々説があり定かではありませんが、塩商人の往来は止めなかったようです。
武田信玄は、謙信に対して「福岡一文字」の名刀を送って感謝の意を表したと伝えられ、事実その太刀は現在重要文化財に指定されています。
その謙信、かなりの酒好きであったと言われ、味噌や梅干しを肴に飲んでいたと伝えられます。
その肴の塩分取り過ぎと飲酒により高血圧となり、脳溢血で死亡したという説が有力です。享年49。
「敵に塩を送る」……宿敵信玄に送った塩でまた、自分の死期を早めたのでしょうか。
(参考文献)
岡谷繁実『名将言行録』
湯浅常山『常山紀談』
奥野高広『武田信玄』
吉川英治『上杉謙信』
財務省編『IMF・世銀年次総会開催』
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第1巻』より)
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2013年6月28日金曜日
トム出版のオリジナル・ノートの印刷を試す
オリジナルノート……と言っても、ネットで多く見るパターンは「様々なアイテムを組み合わせて、自分好みのノートを作る」という物ですが、今回は表紙から中身まで自分の絵柄で作成するというもの。
しかも、小ロットながらも、そこそこ安価で。
そうなると同人誌関係の印刷所に頼むことになりますが、最初に狙っていたのは「サンライズ印刷のリング綴じノート」
B6サイズで中身は40枚。100冊で28000円なり。むむむ。
よく使う「栄光印刷」は、ノートグッズは無い。
そこで「トム出版のオリジナルノート」を見つけました。
B5サイズで、中身は32ページ。50冊で8000円(送料込)。
小ロット依頼には、手頃ではないか。
ということで、物は試しに依頼してみました。
表紙、テカテカツルツルです。
ちょっと反ります。
出稿データはイラストレーターデータへの画像埋め込みだったのですが、おそらくイラレデータに変なプロファイルを埋め込んでしまったのか、ちょっと思ったものより薄く、コントラストが強く印刷されてしまいました。
ホッチキスによる中とじ。
中身の罫線もイラストレーターで作りましたが、罫線濃度は60%では薄く感じますね。
ということで、別の方のイラストで再度トライしてみました。
前回の反省を元に、イラストレーターデーターによる出稿ではなく、フォトショップデーターで出稿しました。
色味は狙った通り、いい感じです。
中の罫線濃度は80%にしましたが、今度はいい感じです。
指定する色にもよるでしょう。そりゃ100%濃度だとしても、黄色などを選べば薄く感じることでしょう。
ちょっとしたノベルティ、子供に配るなどには丁度いいですね。
50冊注文の場合、余分に10冊程度つけてくれます。
難点をあえて言えば、テカテカの表紙が反り気味なのが何とも。中とじだから仕方ないのでしょうけどね。
トム出版のサイトでは説明不足や不明点も多い感じなので、以上ご参考までに。
しかも、小ロットながらも、そこそこ安価で。
そうなると同人誌関係の印刷所に頼むことになりますが、最初に狙っていたのは「サンライズ印刷のリング綴じノート」
B6サイズで中身は40枚。100冊で28000円なり。むむむ。
よく使う「栄光印刷」は、ノートグッズは無い。
そこで「トム出版のオリジナルノート」を見つけました。
B5サイズで、中身は32ページ。50冊で8000円(送料込)。
小ロット依頼には、手頃ではないか。
ということで、物は試しに依頼してみました。
表紙、テカテカツルツルです。
ちょっと反ります。
出稿データはイラストレーターデータへの画像埋め込みだったのですが、おそらくイラレデータに変なプロファイルを埋め込んでしまったのか、ちょっと思ったものより薄く、コントラストが強く印刷されてしまいました。
ホッチキスによる中とじ。
中身の罫線もイラストレーターで作りましたが、罫線濃度は60%では薄く感じますね。
ということで、別の方のイラストで再度トライしてみました。
前回の反省を元に、イラストレーターデーターによる出稿ではなく、フォトショップデーターで出稿しました。
色味は狙った通り、いい感じです。
中の罫線濃度は80%にしましたが、今度はいい感じです。
指定する色にもよるでしょう。そりゃ100%濃度だとしても、黄色などを選べば薄く感じることでしょう。
ちょっとしたノベルティ、子供に配るなどには丁度いいですね。
50冊注文の場合、余分に10冊程度つけてくれます。
難点をあえて言えば、テカテカの表紙が反り気味なのが何とも。中とじだから仕方ないのでしょうけどね。
トム出版のサイトでは説明不足や不明点も多い感じなので、以上ご参考までに。
2013年6月26日水曜日
伊能忠敬 50歳からの挑戦
日本全国を徒歩で歩き、最初の精密な日本地図を作製したことで有名な伊能忠敬。
その伊能忠敬は、最初から天文・測量を志していた訳ではなく、50歳以降からの勉学によって成し遂げた偉業であることに驚かされます。
伊能忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)に神保家の次男として生まれました。
幼くして母が他界、父親や兄弟とも別れて暮らし、孤独な子供時代でしたが、早くから利発だったと言われます。
宝暦十二年(17642)18歳の時、下総国佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子に迎えられ、21歳の達(みち)と結婚しています。
当時、伊能家は佐原村の名主であり、酒造業や水運業を営んでいました。
しかし、達の父親は37歳で他界。同じ歳には、父親の兄も亡くなり、達の母は19歳で未亡人に。その後、14歳の達を伊能家の跡継ぎにして、同族の18歳の男を婿に迎えますが、その彼も20歳で他界。忠敬はこの後に達と結婚することになります。
当主が若くして亡くなり、しばらく伊能家は親戚がきりもみしていた分、忠敬にかかる責任は重く、勉学の志を持ちながらもそれを後回しにして、朝から晩まで家業に専念することになります。
天明3年(1783)、浅間山の大噴火により関東一円の農作物は甚大な被害を受け、大雨による利根川氾濫が佐原村を襲い、伊能忠敬は窮乏した村民たちの救済に奔走します。その後「天明の大飢饉」と言われる大凶作が続くことになります。
忠敬は、利根川の水防工事などに率先して立ち上がり、その功績から領主・津田氏より帯刀を許されています。
そんな中、妻である達が病死。その悲しみの中、天明5年はさらに飢饉がひどくなり、江戸・大阪では打ち壊しが起こり、利根川の氾濫、疫病、米価の高騰、あらゆる災難が襲ってきますが、忠敬の懸命の采配で、家業の復興だけでなく、救民にも積極的に取り組み成果を得ます。
伊能家の経営は安定しますが、不幸も多くありました。妻・達の前夫の子は6歳で、また次女は19歳で亡くなり、忠敬45歳の時に迎えた二番目の妻・信(のぶ)は難産の為病没。
それにしても、昔の女性は早くに子供を産み、人の生もあっという間に終わったのですね……長寿・晩婚の現代とは相当違った価値観があったのでしょう。
寛政6年(1794)、忠敬49歳の時に、家督を長男の景敬に譲り隠居。翌年に江戸深川黒江町(現江東区)へ出て隠居所を構えました。
ここから彼に第二の人生が始まる事になります。
江戸にでた50歳の伊能忠敬は、長年伊能家の家業に専念して、できなかった勉学に打ち込み始めます。
主に暦学を学び、当時使われていた暦が実際とは合わないことを多くの暦算家に質問しますが満足な答えが来ません。
そんな中、幕府天文方の高橋至時が明快な答えを示し、忠敬は高橋と師弟関係を結んだと言います。もちろん、忠敬が弟子です。この時、高橋至時は31歳。周囲は「年下の者を師匠にするとは、物好きな男だ」と笑ったと言われます。
高橋至時の元で、忠敬は猛烈に勉学に励み、高橋は忠敬のことを「推歩先生」とあだ名します。推歩とは暦の計算をすることです。
忠敬は自宅に天文機器を揃え、毎日欠かさず正午の太陽を計り、夜はきまって星空を観測。寛政9年(1797)には、白昼の金星を観測したことは日本人初の快挙だったそうです。
そんな中、地球の大きさはどれほどなのか、緯度1度の正確な長さが問題になります。
忠敬は江戸市中で距離と星の高さを観測してある答えを導きだしますが、高橋至時は、その誤差の大きさを指摘します。実際に緯度1度の長さを測るには、江戸と蝦夷(北海道)ほど離れて観測しないと正確な答えは出ないでしょう、と。
そこで忠敬は、蝦夷行きを願い出ますが、各地を勝手に測量する訳にもいきません。
当時、蝦夷地にはロシア船が出没して国を脅かしていましたから、高橋至時は蝦夷の地図作製を理由に測量の許可を幕府に願い出ます。
幕府はなかなか答えを出しませんでしたが、自腹を切手でも蝦夷に行きたいという忠敬の熱意に押されたのか、わずかな手当をもって測量を許可します。
わずかと言っても、渡し船などの代金補助ぐらいものもで、宿泊などの旅費一切は忠敬が負担したといいます。測量にかける相当の熱意が伝わってきます。
当然、50歳までの伊能家での家業成功が無ければ、切り出せないことであったことには違いありません。
寛政12年4月、56歳の忠敬は江戸から蝦夷に向けて出発。従うメンバーには忠敬の子・秀蔵もいました。
蝦夷では函館から根室近くまでの海岸線を測量、同年12月には地図を幕府に献上しています。さすがの高橋至時も、出発前は不安に思っていましたが、地図の予想以上の出来映えに感嘆したと言います。
これを機に、忠敬は日本全国の測量と地図作製に情熱を燃やすことになります。
先にも述べましたように、伊能忠敬の周辺は若死にする者が多く、正に「人間五十年」は言い過ぎな程短い寿命の時代にあって、50歳以降に勉学に燃え、更には徒歩で日本全国を歩くという離れ業を行った忠敬の姿には、本当に驚かされます。
おそらく彼は、永遠の青年であったのでしょう。
志を高く持ち、常に大きな目標に向かう気持ちを持つことは、何より自分に健康をもたらすのでしょう。
私も、常に青年でありたいものです。
参考文献
『新考 伊能忠敬 九十九里から大利根への軌跡』伊藤一男著 崙書房出版
『日本逸話全集』田中貢太郎著 桃源社
『伊能忠敬』伊達牛助著 古今書院
『その時歴史が動いた6』NHK取材班編 KTC中央出版
『NHKにんげん日本史 伊能忠敬』小西聖一著 理論者
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)
その伊能忠敬は、最初から天文・測量を志していた訳ではなく、50歳以降からの勉学によって成し遂げた偉業であることに驚かされます。
伊能忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)に神保家の次男として生まれました。
幼くして母が他界、父親や兄弟とも別れて暮らし、孤独な子供時代でしたが、早くから利発だったと言われます。
宝暦十二年(17642)18歳の時、下総国佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子に迎えられ、21歳の達(みち)と結婚しています。
当時、伊能家は佐原村の名主であり、酒造業や水運業を営んでいました。
しかし、達の父親は37歳で他界。同じ歳には、父親の兄も亡くなり、達の母は19歳で未亡人に。その後、14歳の達を伊能家の跡継ぎにして、同族の18歳の男を婿に迎えますが、その彼も20歳で他界。忠敬はこの後に達と結婚することになります。
当主が若くして亡くなり、しばらく伊能家は親戚がきりもみしていた分、忠敬にかかる責任は重く、勉学の志を持ちながらもそれを後回しにして、朝から晩まで家業に専念することになります。
天明3年(1783)、浅間山の大噴火により関東一円の農作物は甚大な被害を受け、大雨による利根川氾濫が佐原村を襲い、伊能忠敬は窮乏した村民たちの救済に奔走します。その後「天明の大飢饉」と言われる大凶作が続くことになります。
忠敬は、利根川の水防工事などに率先して立ち上がり、その功績から領主・津田氏より帯刀を許されています。
そんな中、妻である達が病死。その悲しみの中、天明5年はさらに飢饉がひどくなり、江戸・大阪では打ち壊しが起こり、利根川の氾濫、疫病、米価の高騰、あらゆる災難が襲ってきますが、忠敬の懸命の采配で、家業の復興だけでなく、救民にも積極的に取り組み成果を得ます。
伊能家の経営は安定しますが、不幸も多くありました。妻・達の前夫の子は6歳で、また次女は19歳で亡くなり、忠敬45歳の時に迎えた二番目の妻・信(のぶ)は難産の為病没。
それにしても、昔の女性は早くに子供を産み、人の生もあっという間に終わったのですね……長寿・晩婚の現代とは相当違った価値観があったのでしょう。
寛政6年(1794)、忠敬49歳の時に、家督を長男の景敬に譲り隠居。翌年に江戸深川黒江町(現江東区)へ出て隠居所を構えました。
ここから彼に第二の人生が始まる事になります。
江戸にでた50歳の伊能忠敬は、長年伊能家の家業に専念して、できなかった勉学に打ち込み始めます。
主に暦学を学び、当時使われていた暦が実際とは合わないことを多くの暦算家に質問しますが満足な答えが来ません。
そんな中、幕府天文方の高橋至時が明快な答えを示し、忠敬は高橋と師弟関係を結んだと言います。もちろん、忠敬が弟子です。この時、高橋至時は31歳。周囲は「年下の者を師匠にするとは、物好きな男だ」と笑ったと言われます。
高橋至時の元で、忠敬は猛烈に勉学に励み、高橋は忠敬のことを「推歩先生」とあだ名します。推歩とは暦の計算をすることです。
忠敬は自宅に天文機器を揃え、毎日欠かさず正午の太陽を計り、夜はきまって星空を観測。寛政9年(1797)には、白昼の金星を観測したことは日本人初の快挙だったそうです。
そんな中、地球の大きさはどれほどなのか、緯度1度の正確な長さが問題になります。
忠敬は江戸市中で距離と星の高さを観測してある答えを導きだしますが、高橋至時は、その誤差の大きさを指摘します。実際に緯度1度の長さを測るには、江戸と蝦夷(北海道)ほど離れて観測しないと正確な答えは出ないでしょう、と。
そこで忠敬は、蝦夷行きを願い出ますが、各地を勝手に測量する訳にもいきません。
当時、蝦夷地にはロシア船が出没して国を脅かしていましたから、高橋至時は蝦夷の地図作製を理由に測量の許可を幕府に願い出ます。
幕府はなかなか答えを出しませんでしたが、自腹を切手でも蝦夷に行きたいという忠敬の熱意に押されたのか、わずかな手当をもって測量を許可します。
わずかと言っても、渡し船などの代金補助ぐらいものもで、宿泊などの旅費一切は忠敬が負担したといいます。測量にかける相当の熱意が伝わってきます。
当然、50歳までの伊能家での家業成功が無ければ、切り出せないことであったことには違いありません。
寛政12年4月、56歳の忠敬は江戸から蝦夷に向けて出発。従うメンバーには忠敬の子・秀蔵もいました。
蝦夷では函館から根室近くまでの海岸線を測量、同年12月には地図を幕府に献上しています。さすがの高橋至時も、出発前は不安に思っていましたが、地図の予想以上の出来映えに感嘆したと言います。
これを機に、忠敬は日本全国の測量と地図作製に情熱を燃やすことになります。
先にも述べましたように、伊能忠敬の周辺は若死にする者が多く、正に「人間五十年」は言い過ぎな程短い寿命の時代にあって、50歳以降に勉学に燃え、更には徒歩で日本全国を歩くという離れ業を行った忠敬の姿には、本当に驚かされます。
おそらく彼は、永遠の青年であったのでしょう。
志を高く持ち、常に大きな目標に向かう気持ちを持つことは、何より自分に健康をもたらすのでしょう。
私も、常に青年でありたいものです。
参考文献
『新考 伊能忠敬 九十九里から大利根への軌跡』伊藤一男著 崙書房出版
『日本逸話全集』田中貢太郎著 桃源社
『伊能忠敬』伊達牛助著 古今書院
『その時歴史が動いた6』NHK取材班編 KTC中央出版
『NHKにんげん日本史 伊能忠敬』小西聖一著 理論者
(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)
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2013年6月15日土曜日
高島屋の歴史 〜混乱の中で信頼を勝ち取る〜
前記事(高島屋発展の歴史 初代・飯田新七と自利利他の精神)のつづきです。
高島屋にとって、大きな事件が元治元年(1864)に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」でした。
戦により火災が発生し、京都市中の家屋約二万八千余戸を焼くという大火になります。これはなす術もなくどんどん家が焼けてしまったので「どんどん焼け」と呼ばれ伝えられた大火災なのですが、高島屋も消失の憂き目に会いました。
ただ、飯田新七と婿養子の新兵衛はいち早く商品を近くの寺に避難させます。
また、店舗は失いましたが、土蔵は焼け残ります。そこには土蔵の中央に水をたたえた風呂桶と各所に樽を置くという機転がありました。また、火災後すぐに土蔵を開けると、中の熱い空気と外の空気が触れて火が発生するので、二日間冷えるのを待ってから開けたので、中の商品は守られたという話もあります。
ともあれ、火災の一週間後には露店を出して商いを始め、着の身着のまま焼けだされた人々に、通常通りの値段で商品を売ったので、大評判となりあっという間に売り切れたと言われます。
このような混乱の時は稼ぎ時で、粗悪品を高く売りつける商人が出るのは当然のことでしたが、高島屋は良い品を値上げすることなく売ったので、結果、顧客の絶大なる信頼を勝ち取ることになりました。
その後、幕末から明治維新の混乱の中、商売道徳は地に落ち、早売り早儲けに走り、品質の改良を顧みる者もなく粗悪なものが出回るようになっても、高島屋は商品研究を怠らず、良品廉価の商いを貫きました。
そして二代目の言葉です。
「世間はいざしらず、我店で取り扱う商品は、堅牢確実なものを売らんと決心し、染に織に十分の吟味を加え、もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、併せて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」
飯田新七が高島屋を起こした初心である、自利利他の精神を守り通したことが、大きな発展に繋がったと言えましょう。
2013年6月13日木曜日
高島屋発展の歴史 〜初代・飯田新七と自利利他の精神〜
「高島屋」と言えば、国内最大級のデパートとして有名であり、バラのイメージで高貴な雰囲気漂う百貨店ですが、最初は江戸時代に貧しい夫婦が始めた古着屋でした。
高島屋は、天保2年(1831)1月10日、京都の烏丸通松原上ル西側に誕生しました。
初代の飯田新七は享和3年(1803)の越前敦賀生まれ。10歳で京都に出て、呉服商に奉公。大津までの3里の道を、重い荷物を背負って朝早く出かけ夜遅く帰ったので、京都にいながら京都を知らなかったと言われます。
その後25歳の時、米殻商・高島屋の飯田儀兵衛が婿養子に迎え、分家という形で古着の行商を始めます。
しかし、小さな店を出したものの、資金は出店で精一杯で、並べる商品を仕入れるお金にも困る状態。
しかし、そこを乗り越えさせたのが妻の力。困る夫の姿を見て、嫁入り用の着物を差し出して「着物は四季それぞれに一着あれば間に合うし、お金ができればまたいつか買える」と商品にしたという逸話があります。
他、隣の同業者よりも朝早く起きて、一家そろって掃除に励んだので「高島屋はよく気張る」と評判を呼んだり、顧客のニーズを調べる為に街頭で聞きに回るという、現代で言うアンケートを行って商売形態を検討したり、地道ながらも確実に基盤を固めて行きます。
彼は妻と話し合って、創業の精神を四カ条にまとめました。
一、確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし
二、正札掛値なし
三、商品の良否は、明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず
四、顧客の待遇を平等にし、苟も貧富貴賎に依りて差等を附すべからず
特に第一の「自他の利益を図るべし」と、自分たちもお客さんも、双方が得をするような商売をしていこうと誓ったのです。
同じ頃の同業者としては、慶長16年に尾張で創業した呉服屋(現:松坂屋)が江戸に進出、1673年創業の越後屋(現:三越)、1717年創業の京都・大文字屋(現:大丸)など豪商も多く、高島屋はかなり後発と言えるでしょう。
そもそも、当時の庶民の生活は貧しく、幕府により贅沢は禁じられて新しい呉服を着る事ができず、もっぱら衣服は木綿や古着でした。
大名や富豪相手の呉服店チェーンよりも、高島屋は小規模ながら庶民を相手にじわじわと経営基盤を固めて行くことになります。
2013年6月12日水曜日
縄文村の自然食バイキングは絶景で楽しめる
グルメの町として突っ走る邑南町で、先陣を切っているのは「味蔵」ではなくて「縄文村」じゃないかと、私個人的には思っているのですけどね。
縄文村は、浜田道・瑞穂インターから原山雲海ロードを走って、旧石見町に入るとすぐに遭遇する建物。
地元産の有機栽培野菜などを使った、自然食ランチバイキングが楽しめるお店です。
そもそも「縄文村」という名前の由来は、ランチのご飯に「古代米」を使うからとか何とか聞いたことがありますが、邑南町がA級グルメを名乗る前から営業し、常連さんも多いです。
休日の休みともなると、広島ナンバーなど根強いファンが詰めかける人気店。
なにせ、ロケーションがすごい。店内の庭から於保地(おほち)盆地が見渡せる絶景の店。
店の表側からは分かりませんが、なにせこの素晴らしい景色を見ながら食事できるのですから、そりゃ固定客も生まれますよね。
ランチはバイキングになっているので、取り放題で満腹になれます。
店長さんとは、地元郷土史関係で知り合いでして、よく立ち寄るのですが、「そこにお茶があるから自由に飲め」と言われてみて見れば、茶が入った釜があるんですよね。
炭火で湧かしているみたいです。
脇にある竹細工の柄杓ですくえと……とことん自然ですな。
詳しいことは、縄文村のサイトにあります。ランチバイキングは午前11時から無くなるまで……って、品は人数に合わせてガンガン出てきますけどね。
また、店から盆地を眺められるライブカメラもありますので……って、なんかプラグインの不具合で私はうまく見れないのですが、なにせ色んな意味で大好きなお店です。
縄文村は、浜田道・瑞穂インターから原山雲海ロードを走って、旧石見町に入るとすぐに遭遇する建物。
地元産の有機栽培野菜などを使った、自然食ランチバイキングが楽しめるお店です。
そもそも「縄文村」という名前の由来は、ランチのご飯に「古代米」を使うからとか何とか聞いたことがありますが、邑南町がA級グルメを名乗る前から営業し、常連さんも多いです。
休日の休みともなると、広島ナンバーなど根強いファンが詰めかける人気店。
なにせ、ロケーションがすごい。店内の庭から於保地(おほち)盆地が見渡せる絶景の店。
店の表側からは分かりませんが、なにせこの素晴らしい景色を見ながら食事できるのですから、そりゃ固定客も生まれますよね。
ランチはバイキングになっているので、取り放題で満腹になれます。
店長さんとは、地元郷土史関係で知り合いでして、よく立ち寄るのですが、「そこにお茶があるから自由に飲め」と言われてみて見れば、茶が入った釜があるんですよね。
炭火で湧かしているみたいです。
脇にある竹細工の柄杓ですくえと……とことん自然ですな。
詳しいことは、縄文村のサイトにあります。ランチバイキングは午前11時から無くなるまで……って、品は人数に合わせてガンガン出てきますけどね。
また、店から盆地を眺められるライブカメラもありますので……って、なんかプラグインの不具合で私はうまく見れないのですが、なにせ色んな意味で大好きなお店です。
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