2013年10月29日火曜日

石田三成の三献茶と土木事業

 石田三成と言えば「三献茶」
 最近ヒットした映画『のぼうの城』の中で、なかなか戦功のない石田三成に親友・大谷吉継から「それだから、いつまでたっても三献茶の三成と言われるんだ」といったセリフを掛けられるシーンがありました。なるほど、三という数字に掛けてるってことでしょうか。

 石田氏は元々近江国坂田郡石田村の土豪で、三成は石田正継の次男として生まれます。幼名は佐吉。
 土豪でも貧しく、三成は寺に預けられていたとも、また寺に通って勉学していたとも伝えられますが、ともあれ近くの観音寺に寺小姓としていた時に、鷹狩りをする秀吉との出会いがありました。


 今でも、JR長浜駅前には秀吉に茶を献上する三成の像が立ち、観音時には三成水汲みの池と伝えられる井戸が残されているほど、地元では親しまれている逸話です。

 当時、長浜城主として任に着いたばかりの秀吉であった為、鷹狩りには領内視察の意味もあったことでしょう。
 元は敵地であった場所で、気楽に寺に入って茶を所望するあたり無防備すぎる気もしますが、この三献茶の話そのものが創作であるという説が強いので、そのあたりは突っ込まないことにしましょう。

石田三成の三献茶

石田三成の三献茶


 ただ、後世の創作であったにしろ、石田三成は非常に機転の効く、有能な人材であったことには違いありません。
 秀吉政権の中でも、文人派奉行として、財務、太閤検地、諸大名の所領替、兵站や戦後処理などに手腕を発揮しました。


 その三成の活躍話の一つに、淀川の洪水の話があります。
 『名将言行録』にある話なのですが、秀吉が大坂城を築いてまもないころに起きた堤防決壊なので、さすがの秀吉も現場で陣頭指揮を執ったと言われます。

石田三成と米俵

 大雨による堤補修の責任者を願い出た三成は、すぐに大坂城京橋口の米蔵を開け、何百何千という米俵を運び出し、洪水を塞き止めて大阪の町を守りました。
 この機転、なかなかできることではありませんし、また日頃から兵糧調達の任務をしていたからこそできた芸当でありましょう。

 更に、雨が上がった後、付近の住民に「丈夫に作られた土俵三俵を持ってくれば、この米一俵と交換してもよい」とふれを出し、大いに喜んだ民により堤防は以前よりも増して頑丈に仕上がったと伝えられます。

 話だけ聞くと、現代にも負けず劣らない土木工事が行われたように思われます。
 本当かよ?と思う人もあるでしょう。
 ただ、豊臣秀吉は、備中高松城の周囲に長さ4km、高さ8mほどの堤防を短期間で築いて水攻めを行ったことで有名なように、土木事業に大変長けていました。
 秀吉による紀州雑賀征伐でも、7kmもの長大な堤防を築いて太田城を水攻めにしており、石田三成自身も関東・忍城攻めの時に水攻めを行い、現在でも「石田堤」の名前で遺構が残っています。この時の堤防は28kmにも及んだと言いますから驚きですね。
 この忍城攻めが、前述の映画『のぼうの城』で描かれています。



 そんな優秀な石田三成ですが、性格がかなり横柄で傲慢だったようで、さらに関ヶ原の負け戦から歴史上いいイメージがありません。
 いや、三成は関ヶ原では善戦したと思うのですよね。
 元々家康は、三成ごときが反徳川の兵を集められるはずがないと思っていたようですし、小早川などの裏切りがなければ兵力の上で家康を圧倒していましたからね。

 そのようにさせたのは、三成の、秀吉に対する熱い忠義の姿勢であったことは違いないのでしょう。
 家康自身も「三成は、さすが大将の道を知るものだ」と言い、後に徳川光圀も「義を尽くした三成のことを悪く言うものではない」と言ったそうです。

 それもあってか、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』の中で江守徹が、義を貫こうとする石田三成を見事に演じていました。
 あの番組で、三成のイメージがかなり変わった気が(私は)しています。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第5巻』より)