2014年2月26日水曜日

息子 黒田長政の異見会(福岡城 釈迦の間の「腹立たずの会」)【軍師・官兵衛】

 NHK大河ドラマ『軍師・官兵衛』で大きな話題となった黒田官兵衛と長政親子。
 二人は関ヶ原の合戦で徳川方に付き大きな武功を上げ、豊前中津十二万石から一気に筑前五十二万石の大名となりました。

 その長政、福岡を如何にまとめて統治して行くか……そこで設けられたのが『福岡城釈迦の間の異見会』でした。
『腹立たずの会』とも呼ばれます。
 会合が行われた床の間には、お釈迦さまの姿を描いた掛け軸があったので『釈迦の間』と呼ばれたようです。
 もっとも、この会の開催を勧めたのが、父・官兵衛だったとも言われます。

腹立たずの会


黒田長政

  領内での問題に限らず、個々人の言動まで対象となった異見会では、さすがに進行役の長政自身が腹を立てることも多く、家臣になだめられることがあったとか。
 難しいですよね、現代社会の企業でこのような会合を設けたら、相当のストレスを生むでしょうし、あらぬ恨みを買い、ハラスメントで訴えられることにもなりかねない気もします。

長政の異見会

 ですが、功の面が大きかったのでしょう、長政はこのイベントを大変気に入り、末永く続けるように遺書で勧めています。事実、明治四年の廃藩置県まで続いたと言われています。
 きっと、現代では計り知れない主従の間での「思いやり」があったのでしょう。『名将言行録』には「心に思うことを相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らざる様にして、誠に親切なる議論なり」とあります。

  さて、長政の跡を継いだのは長男の忠之でした。
 ところが忠之はわがままな性格だったようで、家臣の諌言を受け入れずに、好みの人材を重用した為に『黒田騒動』を引き起こします。
 この騒動は何とか乗り切り黒田家の改易取り潰しはありませんでしたが、長政の精神を続けることの困難さが伺い知れますね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第2巻』より)

 >> 黒田長政の「腹立たずの会(異見会)」(Pixiv)



2014年2月21日金曜日

【二宮金次郎(2)】桜町領復興と「根っこの藤助」

 小田原藩主・大久保忠真に見いだされて、下野国の桜町領の復興を命じられた二宮金次郎。当時の桜町はどれほど荒廃していたのでしょうか。

 そもそも、元禄の分知当時は戸数は433軒でしたが、二宮が訪れた時は145軒まで減っていたといいます。
 それほど年貢の取り立ては厳しく、逃げ出す者も多かったのです。

 なぜでしょうか。
 それは、分知時の石高は四千石余りでしたが、この時の桜町の生産能力は八百石まで落ちていたと言います。しかし藩の役人は四千石の計算のままで取り立てますから、厳しくなる筈です。
 ですから、そこに住む人の心も荒れ果て、貧しくなるのも当然でしょう。220町あった農地も、120町も荒れ地を出していました。
 小田原藩としては何とか立ち直らせようと、小田原より役人と莫大な資金を投入してきましたが、ことごとく失敗していました。

 二宮は調査により、もともと痩せている土地なので、桜町をどんなに復興しても二千石までにしか戻せない旨、藩主に伝えて了解をもらい、復興最終目標二千石という無理の無いプランを立てて行くことになります。 
 ところが、土地も荒れ果てていれば、人の心も荒れた桜町でしたから、二宮の改革はそう簡単には進みませんでした。
 二宮のやり方に反発し、讒言をし、妨害をする人も少なくなく、困難を極めます。

 ただ、さすが農民出身の二宮だけあり、百姓たちの心を少しずつ捉えて復興を進めていきました。
  その、様々なエピソードの中でも有名なものを描きました。




  特に、開墾場に常陸国笠間から出稼ぎに来ていた「藤助」という老人が、力が無いながらも陰日なたなく働くので、二宮は賃金として大金を彼に渡したという逸話があります。


根っこの藤助


桜町領

根っこの藤助


 役人の目を欺こうとする者には厳しい態度で臨み、自分の精一杯でコツコツ頑張る者には多くの褒美を与えました。
 人に見せるための仕事を嫌い、心をどれだけ打ち込んで仕事をしているか、重視したのですね。

(マンガは『歴史人物に学ぶ 大人になるまでに身につけたい 大切な心 第3巻』より)