2013年5月31日金曜日

小学館学習漫画の「桶狭間」が、谷から山に変わっていた

 小学生の時、といってもかれこれ30年以上前の話ですが、小学館の学習漫画「日本の歴史」シリーズを祖母が買って来てくれました。

 完全にハマりました。歴史好きになったのは、それからと言っていいぐらい。

 作画を担当されたのが「あおむら純」先生でしたが、残念ながら既に亡くなっておられるそうです。
 アニメーター出身のあおむら先生の絵が、とても好きでした。というより、相当資料を集められてて考証し、苦労して描かれたと思います。集英社や講談社など、他の出版社の日本の歴史学習漫画と比べても、群を抜いて素晴らしい仕上がり。

 当時はネット社会ではないですから、資料集めはさぞかし大変だったことでしょう。今なら、例えば秀吉の甲冑が見たければ、「秀吉 甲冑」と画像検索かければ、ずらりと出てきますからね。

 それが、先日ふらりと書店に立ち寄ってみたところ、今でも変わらず売られている。
 懐かしいなあ、と思ってパラパラ見ていたら、やはり最近の研究結果に基づいて絵が修正されていることに気がつきました。
 しかも、あおむら先生亡き現在ですから、絵がかなり違う……まあ、その違いは仕方ないにしても、特に目を引いたのが「桶狭間の戦い」です。

 まあ、とにかく見て頂きましょう。
 私が小学生の時に読んだ版での桶狭間。

学習漫画 桶狭間

 桶狭間は谷間が常識でしたから、信長軍は駆け下りてます。

あおむら純 桶狭間

今川義元あやうし。
 2ページ見開きで展開される合戦絵巻に、小学生の私は感動したものです。


 さて、現在売られている版ではどうなっているのか。

日本の歴史 桶狭間の戦い

 そうですよねー、桶狭間は山だったんですものね。
 織田軍が山を駆け上がっています。

日本の歴史 桶狭間の戦い

 完全に山頂になってます。
 なるべくあおむら先生の絵に近づけていますが、全く違います。まあ、仕方の無い事ですが。
 絵は谷から山に変わっているのに、ト書きは「地形を利用したたくみな奇襲戦法」のままになっています。


 今更説明するまでもないでしょうが、桶狭間は山でした。

 最近の歴史研究でそうなっていたことに気がついたのは、確かNHK大河ドラマ『利家とまつ』の時でした。
 反町演じる織田信長が、今川軍を攻める時「桶狭間山を駆け上った」とナレーションで言っていたのを思い出します。確かに山で戦っていましたよ、利家が。


 ともあれ、作家は亡くなってしまわれましたが、歴史研究は日々発展変化しますから、学習漫画としては絵を修正せざるをえない状況になりますよね。
 だから、親が使った学習参考書や教科書を、そのまま自分の子供に使わせるなどはできない訳です(笑)。


2013年5月30日木曜日

海尻城の戦いと日向大和守 武田の強さの秘密?

 武田信玄と言えば、「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉で知られる通り、家臣とその団結を何よりも大切にした戦国大名として知られています。
 
 その武田家の家臣の中でも、日向大和守は、板垣や甘利たちと並ぶほどの侍大将だったと言われます。武田信虎時代から、佐久侵攻の戦いで活躍し、今回は海尻城を守っていた時の話です。

海尻城の戦い


『甲陽軍鑑』の中では、海尻城の本城に小山田備中守、二の丸に日向大和守、三の丸に長坂長閑を入れて守らせていたとあります。
 現在の海尻城跡には、確かに山上の曲輪を本丸、二の郭、三の郭と案内されていますが、それをそのまま当てはめるには規模が小さすぎます。日向大和守が入った二の丸や三の丸は、山城の麓にあった居館部分だったのでしょう。

 さて、ここからは『名将言行録』にある話です。
 天文9年、小山田備中守昌辰らと一緒に海尻城を守っていた時、信濃村上勢の攻撃を受けます。この時、城内にいた元信濃衆が村上と内通し、城門を開け、敵を城内に引き入れました。
 こうなっては守る日向もたまりません。不意をつかれて防戦どころではなく、そのまま城を捨てて落ち延びます。本城に小山田を残したまま。
 しかし、日向大和守は逃げる途中で、援軍に駆けつけた武田晴信とバッタリ遭遇します。おめおめ逃げてきた日向に対して「城を抜け出してくるとは、愚か者め。恥を知れ恥を!」と叱咤したのでしょうか。

日向大和守と武田信玄


 晴信はしませんでした。
 逆に先陣の名誉を与え、小山田が守る本城へ向かわせました。
 主君の温情に感泣した日向大和守は奮起し、大功を立てることになったのですが、日向の奮戦もさることながら、武田晴信の人の使い方もまた素晴らしい。
 武田の強さの秘密の一つを、ここに見る思いがしますね。

 ちなみにこの日向大和守は、武田軍が敗走した戸石城の戦い(砥石崩れ)の際、敵の追撃を受けて討死したとあります。
 戦国最強軍団を築くには、やはり負け戦や大きな犠牲もあった訳ですね。


2013年5月29日水曜日

破城の跡を今に残す本城(島根県邑南町)

 土の城として、破城の跡を今に残す貴重な山城があります。
 島根県邑南町の瑞穂地区(旧瑞穂町)にある、本城という山城跡のことです。

 地元の遺跡管理の方に聞けば、破城と言えば石垣の城のパターンが多いのですが、土の城で破城の跡を残すのは、この本城が唯一ではないか、と。
 最近になって、邑南町石見地区(旧石見町)中野にある別所城跡に破城の跡が見られるということで、土の城としては2例目になるとか何とか。

 その貴重な山城跡である本城は、きちんとした登山道はありません。東側から必死に登るしかないのですが、さすが隣の二つ山城は奇麗に整備されているのに、本城のこの扱いは少々解せません。

 二つ山城よりも、この本城の方が戦略的には優れています。だからこそ、破城を受けたのでしょうが。

本城 本丸

 写真では分かりにくく、登れば分かるのですが、主郭はズタズタに刻み込まれています。
 感じとして、深いところで2メートルぐらい垂直に掘り下げていたのではないでしょうか。確かにそんな穴で刻み込まれたら、二度と使おうとは思わないでしょうね。

 本城は、安芸・石見をまたがりこの地域を支配した高橋氏の居城。
 阿須那の藤掛城から出羽地区へ進出し、二ツ山城の出羽氏を追いやり、本城を築きます。
 出羽氏は失地回復の為に毛利元就に協力を求め、やがて元就の策略により高橋氏は滅ぼされ、出羽氏は二ツ山城を取り戻します。
 出羽氏にとって、高橋氏はよほど憎かったのでしょうか。破城したのは誰かは分かりませんが、二ツ山城の隣の山に優れた城を残す訳にはいかなったのでしょうね。



秀吉の薪奉行 どんな仕事も軽視することなく

 大河ドラマで視聴率を稼ぎたかったら『太閤記』にすればいい、と言われるとか言われないとか。
 さすがに緒形拳が秀吉を演じた太閤記は知りませんが、私が最初に見たNHK大河ドラマは『おんな太閤記』。……小学生の時だったと思いますが、私にとって秀吉と言えば西田敏行さんのイメージなんですけどね。

 それはさておき、その豊臣秀吉・木下藤吉郎は与えられた職を全力でこなした働き者であったというお話を一つ。

 「秀吉の薪奉行」

秀吉の薪奉行


 小瀬甫庵の『太閤記』に出てくる話で、司馬遼太郎も『新史太閤記』で描いている話です。

 ある時、秀吉こと木下藤吉郎が、主君・織田信長から「薪奉行」を突然命じられます。「鍋奉行」じゃないですよ。
 尾張清洲城で使われる薪を管理する役なのですが、信長は「お前のやりたいように1年間やってみろ」と秀吉に一切を任せます。
 すると秀吉は早速仕事にとりかかり、自ら火を炊き、多くの囲炉裏を調査して一ヶ月の使用量を計算し、うまくやれば従来の三分の一の量で済むことを弾き出します。

 その通りにうまくやりくりする秀吉でしたが、信長は「お前を薪奉行に命じたのは、足の速い馬に塩を運ぶ車を引かせたようなものだった。優れた人材をつまらぬ仕事に用いたことよ」と言って、別の奉行を命じたとのことです。

 『太閤記』では続けて、「誰しも自分の才能に比べて低い仕事を与えられると、主人を恨み、それが顔に出て、出世の妨げになる」とあります。
 秀吉は、どんな仕事を与えられても、腐ることなく、常に全力を尽くし勤めたからこそ、あれほどの出世を遂げることができたのでしょう。


2013年5月25日土曜日

堀秀政 〜非難文を家宝にする〜

 堀秀政は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、何をやらせてもそつなくこなしたことから「名人久太郎」と呼ばれるほど有能な人で、現代のネット社会でも「Q太郎」と言われているとか(笑)。

 織田信長の小姓だった秀政は、後に秀吉に仕え数々の軍功を上げ、長浜城主、佐和山城主などを経て、丹羽長秀後の北ノ庄城に入りました。

堀秀政

 さて、織田家家臣だった「オダケのQ太郎」……じゃなかった、名人久太郎・堀秀政は一体どんな名人芸を見せてくれたのでしょうか。

 たとえば、小牧・長久手の戦いでは、敗戦となった秀吉軍にいた秀政ではありますが、家康軍に打撃を加え、大きな損害を出すことなく陣を引いています。

 特に人を用いることが上手で、どんな家臣も軽々しく扱うことなく、感情のもつれが起きないように心配りしていたそうです。
 「どんな人間にも取り柄がある」と言っていた秀政。
 家臣の中に、いつも涙目で眉をしかめてうつむいて歩く者がいて、皆から嫌われていた人がいました。「あいつは不吉なので、暇を出されては」と言っている家臣に対して秀政は「どんな人間にも使い道はある。さしずめ、他家の葬式に使者として使わせば丁度いいのでは」と、そのまま登用させたとか。


 他、『名将言行録』にいくつか記載されている中で、北ノ庄城主だった時に、町の辻に堀秀政の非難文が立てられたという話があります。

堀秀政

 立て札には、秀政家臣の城下町人に対する素行の悪さなど、三十二、三か条も列記されてあったそうです。
 封建社会に置いて、匿名とは言えこのような立て札を立てるのは、死を覚悟しなければならないほどでしょう。統率者に取ってみれば、諫言というものは、いつの時代も簡単に受け入れられるものではありません。

 ところが、家臣が城内に持ち帰った立て札を、秀政は「これは我が家の家宝である」と押し頂き、丁寧に箱に収め、早速家臣たちを集めて、立て札の内容を評議させ、悪いところを改めさせました。

 この話、その後「さすが秀政さまは名君です」という立て札が建てられた、と記されているところもあれば、この立て札そのものが秀政の自作自演だったと書かれている書物もあります。
 たとえそうであっても、家臣の不正を正すための、秀政の名人芸であったに違いありません。


 その堀秀政、残念なことに秀吉の小田原攻めの際、陣中で病死してしまいます。享年38歳。
 もしそのまま生きていれば、秀吉の重要な家臣として、大老職にもなったことでしょう。豊臣秀吉は、小田原攻めの後に関東を任せるのは徳川家康ではなく堀秀政のつもりだった、とも言われますが、その早過ぎる死は惜しまれてなりません。


2013年5月17日金曜日

液晶ペンタブレットと視力

液晶ペンタブレットでマンガを描き始めてから、どうも視力が落ちた感じがする。

メガネをかけて、原稿用紙に向かうと視点が定まらない。
メガネ外さないと、新聞の文字が読めない。
え?これは老眼?

今年は免許更新の年なんですよ。このままだと、メガネ作り直さないと引っかかって更新できない。
そう嘆いていた時、たまたまメガネのフレームが割れて壊れました。

買い替えだ。

仕方なしにメガネ屋へ行って、視力を測り直すと、意外にも
「レンズの度は変える必要がありませんね」
と言われる。
つまり視力は変わっていなかった。
少し乱視が入っている模様ではあるが。

「え、でも、かなり視力が落ちた感じがするんですけどね」
と聞けば、
「お客様の壊れたメガネは、9年前に作られています。
 9年も経って、レンズ表面が劣化してボケて見えるようになったんですよ。
 視力が落ちたと思われたのは、たぶんそれが原因です」

……本当か?
 半信半疑でレンズの度はそのままで作り直したメガネをはめて驚いた。
「よく見える……!」

 メガネをしたまま原稿用紙に向かっても、何ら問題ない。

 メガネに、そんな寿命があったとは知りませんでした……。


2013年5月16日木曜日

黒田官兵衛の遺した教訓


豊臣秀吉の軍師として、天下取りに貢献した黒田官兵衛孝高(如水)は子孫の行く末を願って多くの教訓を書き残しています。

黒田官兵衛の教訓
「黒田如水教諭」より

「黒田如水教諭」の中から意訳してみますと、


「大将には威厳がなければ、多くの人を率いていけない」と言って、偉そうに振る舞うのは間違いである。具体的には、次の言動に気をつけなさい。

●相手を見下げて、権威ぶった態度をとってはならない。
●言葉を荒くしたり、ささいなことで目を怒らせたりしてはならない。
●人から注意されたならば、はねつけてはならない。
●自分に非があるのに、威圧するような言い方で、ごまかしてはならない。
●わがままに振る舞ってはならない。


 そのまんま、現代に通じるものがありますね。
 高慢な態度が身を滅ぼすのは、いつの時代も同じのようです。




大河ドラマ・木曾義仲の署名回覧板が来た

我が家に、大河ドラマ「木曾義仲」誘致の為の署名回覧板が来ました。

木曽義仲 大河ドラマ署名

頑張ってるなあ……それにしても、他に誘致できる人物が無いのかね、富山県。

木曾義仲って、越中を通り過ぎただけ、と言えば言い過ぎですかね。
室町から戦国期にかけて、それほど有名な人物を排出していない越中にしてみれば、通り過ぎた木曾義仲にすがるしかないのか。

「山河燃ゆ」や「いのち」など昭和の時代でも大河ドラマにした例があるので、黒部ダム建設を大河にすればいいのでは……って、そうもいかないか。

「利家とまつ」の時には、佐々成政ネタで富山は盛り上がりましたし、「天地人」の時には魚津城の戦いで3週間引っ張ったので、それなりに魚津が盛り上がった。

 さてさて、実際に木曾義仲が大河ドラマになったとして、倶利伽羅峠の戦いで何週間引っ張って富山を喜ばせてくれるのでしょうか、NHKは。
 そんな淡い期待を込めて、とりあえず署名。


2013年5月9日木曜日

検索結果タイトルに「-FC2」が付くFC2ホームページ

FC2ホームページサービスで作ったサイトについてですが、Googleの検索結果の、ページタイトルに強制的に「-FC2」が付いてしまう。

しかも、タイトル名が適度に省略されていたり、別のものになっていたりする。
つまり明らかに改変されている訳だ。

こりゃ困る。

もちろん、そうでないページもあるのですが、その違いが分からない。

この件について、FC2側は「検索結果については、検索エンジンに責任があるのでそっちに聞いてよ」という対応のようです。
ま、そりゃそうか。
Googleに送信するサイトマップを作れば改善されるのかな?……分からん。

FC2はGoogle八分を受けているだの、ペナルティだの噂されてますから、それがこんなところに出ているとしたら厄介な話ですね……。