2013年5月30日木曜日

海尻城の戦いと日向大和守 武田の強さの秘密?

 武田信玄と言えば、「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉で知られる通り、家臣とその団結を何よりも大切にした戦国大名として知られています。
 
 その武田家の家臣の中でも、日向大和守は、板垣や甘利たちと並ぶほどの侍大将だったと言われます。武田信虎時代から、佐久侵攻の戦いで活躍し、今回は海尻城を守っていた時の話です。

海尻城の戦い


『甲陽軍鑑』の中では、海尻城の本城に小山田備中守、二の丸に日向大和守、三の丸に長坂長閑を入れて守らせていたとあります。
 現在の海尻城跡には、確かに山上の曲輪を本丸、二の郭、三の郭と案内されていますが、それをそのまま当てはめるには規模が小さすぎます。日向大和守が入った二の丸や三の丸は、山城の麓にあった居館部分だったのでしょう。

 さて、ここからは『名将言行録』にある話です。
 天文9年、小山田備中守昌辰らと一緒に海尻城を守っていた時、信濃村上勢の攻撃を受けます。この時、城内にいた元信濃衆が村上と内通し、城門を開け、敵を城内に引き入れました。
 こうなっては守る日向もたまりません。不意をつかれて防戦どころではなく、そのまま城を捨てて落ち延びます。本城に小山田を残したまま。
 しかし、日向大和守は逃げる途中で、援軍に駆けつけた武田晴信とバッタリ遭遇します。おめおめ逃げてきた日向に対して「城を抜け出してくるとは、愚か者め。恥を知れ恥を!」と叱咤したのでしょうか。

日向大和守と武田信玄


 晴信はしませんでした。
 逆に先陣の名誉を与え、小山田が守る本城へ向かわせました。
 主君の温情に感泣した日向大和守は奮起し、大功を立てることになったのですが、日向の奮戦もさることながら、武田晴信の人の使い方もまた素晴らしい。
 武田の強さの秘密の一つを、ここに見る思いがしますね。

 ちなみにこの日向大和守は、武田軍が敗走した戸石城の戦い(砥石崩れ)の際、敵の追撃を受けて討死したとあります。
 戦国最強軍団を築くには、やはり負け戦や大きな犠牲もあった訳ですね。


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