2013年6月26日水曜日

伊能忠敬 50歳からの挑戦

 日本全国を徒歩で歩き、最初の精密な日本地図を作製したことで有名な伊能忠敬
 その伊能忠敬は、最初から天文・測量を志していた訳ではなく、50歳以降からの勉学によって成し遂げた偉業であることに驚かされます。

 伊能忠敬は延享2年(1745)、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)に神保家の次男として生まれました。
  幼くして母が他界、父親や兄弟とも別れて暮らし、孤独な子供時代でしたが、早くから利発だったと言われます。

伊能忠敬マンガ

 宝暦十二年(17642)18歳の時、下総国佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子に迎えられ、21歳の達(みち)と結婚しています。
 当時、伊能家は佐原村の名主であり、酒造業や水運業を営んでいました。
 しかし、達の父親は37歳で他界。同じ歳には、父親の兄も亡くなり、達の母は19歳で未亡人に。その後、14歳の達を伊能家の跡継ぎにして、同族の18歳の男を婿に迎えますが、その彼も20歳で他界。忠敬はこの後に達と結婚することになります。
  当主が若くして亡くなり、しばらく伊能家は親戚がきりもみしていた分、忠敬にかかる責任は重く、勉学の志を持ちながらもそれを後回しにして、朝から晩まで家業に専念することになります。

 天明3年(1783)、浅間山の大噴火により関東一円の農作物は甚大な被害を受け、大雨による利根川氾濫が佐原村を襲い、伊能忠敬は窮乏した村民たちの救済に奔走します。その後「天明の大飢饉」と言われる大凶作が続くことになります。
  忠敬は、利根川の水防工事などに率先して立ち上がり、その功績から領主・津田氏より帯刀を許されています。

  そんな中、妻である達が病死。その悲しみの中、天明5年はさらに飢饉がひどくなり、江戸・大阪では打ち壊しが起こり、利根川の氾濫、疫病、米価の高騰、あらゆる災難が襲ってきますが、忠敬の懸命の采配で、家業の復興だけでなく、救民にも積極的に取り組み成果を得ます。

伊能忠敬

 伊能家の経営は安定しますが、不幸も多くありました。妻・達の前夫の子は6歳で、また次女は19歳で亡くなり、忠敬45歳の時に迎えた二番目の妻・信(のぶ)は難産の為病没。
 それにしても、昔の女性は早くに子供を産み、人の生もあっという間に終わったのですね……長寿・晩婚の現代とは相当違った価値観があったのでしょう。

伊能忠敬マンガ

 寛政6年(1794)、忠敬49歳の時に、家督を長男の景敬に譲り隠居。翌年に江戸深川黒江町(現江東区)へ出て隠居所を構えました。
 ここから彼に第二の人生が始まる事になります。 

 江戸にでた50歳の伊能忠敬は、長年伊能家の家業に専念して、できなかった勉学に打ち込み始めます。
  主に暦学を学び、当時使われていた暦が実際とは合わないことを多くの暦算家に質問しますが満足な答えが来ません。
 そんな中、幕府天文方の高橋至時が明快な答えを示し、忠敬は高橋と師弟関係を結んだと言います。もちろん、忠敬が弟子です。この時、高橋至時は31歳。周囲は「年下の者を師匠にするとは、物好きな男だ」と笑ったと言われます。

高橋至時マンガ

  高橋至時の元で、忠敬は猛烈に勉学に励み、高橋は忠敬のことを「推歩先生」とあだ名します。推歩とは暦の計算をすることです。
  忠敬は自宅に天文機器を揃え、毎日欠かさず正午の太陽を計り、夜はきまって星空を観測。寛政9年(1797)には、白昼の金星を観測したことは日本人初の快挙だったそうです。

 そんな中、地球の大きさはどれほどなのか、緯度1度の正確な長さが問題になります。
 忠敬は江戸市中で距離と星の高さを観測してある答えを導きだしますが、高橋至時は、その誤差の大きさを指摘します。実際に緯度1度の長さを測るには、江戸と蝦夷(北海道)ほど離れて観測しないと正確な答えは出ないでしょう、と。
 そこで忠敬は、蝦夷行きを願い出ますが、各地を勝手に測量する訳にもいきません。
 当時、蝦夷地にはロシア船が出没して国を脅かしていましたから、高橋至時は蝦夷の地図作製を理由に測量の許可を幕府に願い出ます。
 幕府はなかなか答えを出しませんでしたが、自腹を切手でも蝦夷に行きたいという忠敬の熱意に押されたのか、わずかな手当をもって測量を許可します。
 わずかと言っても、渡し船などの代金補助ぐらいものもで、宿泊などの旅費一切は忠敬が負担したといいます。測量にかける相当の熱意が伝わってきます。
 当然、50歳までの伊能家での家業成功が無ければ、切り出せないことであったことには違いありません。


 寛政12年4月、56歳の忠敬は江戸から蝦夷に向けて出発。従うメンバーには忠敬の子・秀蔵もいました。
 蝦夷では函館から根室近くまでの海岸線を測量、同年12月には地図を幕府に献上しています。さすがの高橋至時も、出発前は不安に思っていましたが、地図の予想以上の出来映えに感嘆したと言います。

 これを機に、忠敬は日本全国の測量と地図作製に情熱を燃やすことになります。
 先にも述べましたように、伊能忠敬の周辺は若死にする者が多く、正に「人間五十年」は言い過ぎな程短い寿命の時代にあって、50歳以降に勉学に燃え、更には徒歩で日本全国を歩くという離れ業を行った忠敬の姿には、本当に驚かされます。

 おそらく彼は、永遠の青年であったのでしょう。

 志を高く持ち、常に大きな目標に向かう気持ちを持つことは、何より自分に健康をもたらすのでしょう。
 私も、常に青年でありたいものです。 



参考文献
『新考 伊能忠敬 九十九里から大利根への軌跡』伊藤一男著 崙書房出版
『日本逸話全集』田中貢太郎著 桃源社
『伊能忠敬』伊達牛助著 古今書院
『その時歴史が動いた6』NHK取材班編 KTC中央出版
『NHKにんげん日本史 伊能忠敬』小西聖一著 理論者

  

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